衰退と後継国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/08 04:19 UTC 版)
コンスタンティノポリス総主教フォティオス1世が正教会の他の主教にルーシのキリスト教化について伝えた直後、ロシア北西部にあったルーシ・カガン国の中心地で大規模な火災がおこり、多くの町が火災によって焼失した。考古学調査によると、この火災がおこったのは860年代か870年代で、ホルムガルド、アルデイギャ、アラボルグ、イズボルスクなどの町で大火災があった証拠が発見されている。なお、これら町のうちいくつかは、この大火の後再建されることはなかった。原初年代記には、土着の信仰を持つスラヴ人やチューヂ人(フィン人)が流入してきたヴァリャーグらに対して反乱をおこし、862年に彼らを国の外に追い払ったとの記述がある。ただし、ノヴゴロド第一年代記(シャハマトフはこちらの記述の方がより信頼性が置けるとした)では、リューリクが現れる以前のこうした蜂起について、年代を記載していない。16世紀のニコン年代記では、ヴァリャーグがルーシの国から退いたのはヴァディム(リューリクに反旗を翻したイリメニ・スラヴ族の長)に拠るものとしている。また、ウクライナの歴史家ミハイロ・フルシェフスキーは、ヴァディムの反乱をルーシのキリスト教化に対する「異教徒の反発」ととらえた。 その後ルーシの地は不安で無秩序となった。ザッカーマンは、およそ875年から900年までこの状態が続き、880年代と890年代に貨幣の出土がないのは当時ヴォルガ交易路が機能を停止したためであり、これはヨーロッパ初の「銀の危機」を引き起こていたとした。 ルーシの地は、この経済的な停滞期と政治の混乱期を経て、およそ900年ごろ復興をみた。ザッカーマンは、この復興をリューリクと彼の部下たちの到来と結びつけて考えた。リューリクらは、理由については定かではないが、ヴォルガ交易路ではなく、バルト海と黒海を繋ぐドニエプル交易路(後に「ヴァリャーグからギリシアへの道」と呼ばれる)に注目し発展させ、ラドガおよびノヴゴロドのスカンディナヴィア人集落も急速に復興した。900年から910年にかけて、大規模な交易の前哨拠点がドニエプル川沿い、現在のスモレンスクの近くにあるグニャーズドボに形成された。また同じくドニエプル川流域にあるキエフも重要な都市として発展していった。 ルーシ・カガン国が最期、発展してキエフ・ルーシとなったのか、あるいは単にキエフ・ルーシに吸収されたのかは不明である。キエフの人々はカガンの在り方についてあまりはっきりとした考えをもっていなかったようでもある。スラヴ側の史料では、860年代のルーシのキリスト教化や830年代のパフラゴニア(英語版) 遠征について触れていない。また860年代のルーシのコンスタンティノープル侵攻についての記述も、ギリシャ側の史料から原初年代記の著者が引用したものであり、これは当時のルーシが未だ書き言葉をもっていなかったことを示唆している。
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