良成親王
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良成親王(よしなりしんのう/ながなりしんのう[2])は、南北朝時代から室町時代初期にかけての南朝の皇族。 近世の南朝系図によると、後村上天皇の第六皇子[3]で、母は越智家栄の女・冷泉局(新待賢門院冷泉)とされるが、同時代史料には名が見えないため、親王の実在自体を疑う説は少なくない。だが、征西将軍懐良親王(後醍醐天皇皇子)の跡を継承して九州南軍を指揮した後征西将軍宮(のちのせいせいしょうぐんのみや)とは、良成親王に比定されるのが旧来の通説であり[4]、他に有力な異説も見当たらないため(後述)、本項では後征西将軍宮の事績を親王のそれとして記述する。
- ^ a b 『菊池祥之氏所蔵文書』は応永2年3月10日(1395年3月31日)、中田憲信編『皇胤志』は同年3月14日(4月4日)とするが、いずれも史料と符合しない。
- ^ 郷土史においては、「りょうせいしんのう」と音読みで読まれることがある。
- ^ 九州歴史資料館『特別展 八女の名宝』2016年。
- ^ a b 征西将軍良成親王について、宮内省図書寮編『後村上天皇実録』(『天皇皇族実録75』所収)の按文には、「親王ノ名、他ニ所見ナキモ、懐良親王ノ後ヲ受ケテ九州ニ号令セル将軍宮ハ蓋シ此親王ナルベケレバ、今姑ク南朝事跡抄所引ノ古本帝王系図、古物屋本皇胤紹運録ニ拠リ掲記ス、」とあり、また、『大日本史料』(6編41冊、文中3年12月25日条)の按文には、「征西将軍宮ノ御諱、泰成・師成等ノ異説アリテ一定シ難キモ、今姑ク通説ニ従フ、」とある。
- ^ 『菊池古文書』弘和4年7月日付菊池武朝申状
- ^ 『相良家文書』元中2年2月17日付良成親王令旨
- ^ この「兵部卿親王」の比定をめぐっても、泰成親王や師成親王などの説があるが、本項では藤田の推定に従い、「将軍宮(良成親王)」と同一人と見ておく。
- ^ 『深堀文書』明徳元年9月日付深堀時清軍忠状
- ^ 『五條家文書』(元中8年)10月23日付良成親王書状、同年12月9日付五條頼治申状案
- ^ 林嘉三郎の『南朝遺史』(芳文堂、1892年)には、将軍足利義満が九州に僧を派遣して和睦を講じるも、親王はこれを拒否したとあるが、真偽不詳である。
- ^ 『五條家文書』(元中12年)10月20日付良成親王書状
- ^ 西米良村史編さん委員会編 『西米良村史』 西米良村、1973年。
- ^ 八代 『長慶天皇御即位の研究』 明治書院、1920年。
- ^ 中村 『南朝の研究』 星野書店、1927年。1978年復刊
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