興行師として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 23:35 UTC 版)
兵庫県明石市出身で、大阪府大阪市北区育ち。米穀商を営んでいた林豊次郎の長男として出生。母親は林ちよ、姉は吉本興業創業者の吉本吉兵衛(後に泰三と改名)の妻の吉本せい。弟は旧吉本興業株式会社(初代東京吉本)の社長を務めた林弘高。実子は林マサで、その夫(娘婿)は林裕章。 1917年、18歳の時に吉本興業の前身、吉本興行部に入社し、19歳で総監督となった。1948年に吉本興業合名会社が株式会社に改編されたのを機に、初代の社長に就任。1950年に初代会長に就任していた姉吉本せいの死に伴い、会長も兼務した。1963年に体調を崩し、大阪大学医学部附属病院に入院、持病の糖尿病と膀胱の疾患と診断され、やむを得ず社長から一旦退き、弟の弘高に譲る。1970年に弘高が脳梗塞で半身不随となり、社長に復帰した。1973年には再び社長を退いたが、1986年にはまたも社長に復帰し、1991年に死去するまで社長を務めた。 初代桂春團治・横山エンタツ・花菱アチャコ等の多くの芸人を育て上げ、なんば花月、うめだ花月等の劇場もオープンさせるなど、吉本興業を日本最大手の芸能事務所に発展させた。 一方、松竹芸能とは脅す行為を含めて、引抜きを禁止するなど激しく対立。このことから、自身の死去までは、松竹芸人と自社の芸人をテレビで共演させることは少なかった。 1968年1月11日、当時の山口組組長・田岡一雄と組んでレコード会社を乗っ取ろうとした容疑で兵庫県警に逮捕されている。 1991年4月24日に大阪厚生年金病院で心不全のため死去。92歳没。日本の芸能プロモーターとしては当時最高齢であり、その長寿をまっとうした。死去する3か月前まで劇場運営等などを指揮をした。密葬が千里会館で、社葬は自身が愛したなんばグランド花月(NGK)で行われた。墓所は豊中市の服部霊園にある。
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