自由タイ運動
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自由タイ運動(タイ語: ขบวนการเสรีไทย 音写:カブアンカン・セーリー・タイ)は、1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦から1945年(昭和20年)終戦までの日本軍がタイ王国領土に進駐したことに抵抗したタイ人による地下レジスタンス運動。自由タイ運動は、連合国に、タイ国内の重要な軍事情報を提供し、インドシナ半島における連合軍の作戦遂行に貢献し、戦後、タイ王国が主権を保つことができた重要な要素のひとつとなった。
- ^ a b 柿崎一郎 (2007). 物語 タイの歴史―微笑の国の真実. 中央公論社. ISBN 978-4-12-101913-4
- ^ 当時、国王ラーマ8世は、スイスに留学中であり3名の摂政が置かれたが、政治的権限は実質的にない名誉職的なものであった。
- ^ 英泰条約では、旧マラヤ領のパッターニー県・ヤラー県・ナラーティワート県の深南部三県とサトゥーン県を交換で獲得していた。
- ^ Stearn, Duncan (2003年5月30日). “Allies attack Thailand, 1942–1945”. パタヤ・メール (パタヤ) 2013年3月20日閲覧. "On 26 December 1942 bombers of the United States’ Tenth Air Force, based in India, launched the first major strike"
- ^ Stearn, Duncan (2004年4月2日). “Shot Down and Rescued”. パタヤ・メール (パタヤ) 2013年3月20日閲覧. "Many Thais resented the presence of Japanese forces in their homeland, especially since these troops tended to act more like occupiers than allies. So, whenever the opportunity arose to hinder the progress of Japanese war aims, there Thais collaboration was present."
- ^ Stearn, Duncan (2004年4月16日). “To Bangkok”. パタヤ・メール (パタヤ) 2013年3月20日閲覧. "The downed fliers were taken to Thai police headquarters where some of them received first aid and, as evening fell, they were allowed outside to wash themselves in a large pool of water."
- 1 自由タイ運動とは
- 2 自由タイ運動の概要
- 3 主要な構成メンバー
- 4 参考
自由タイ
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「プリーディー・パノムヨン」の記事における「自由タイ」の解説
詳細は「タイ王国進駐」および「自由タイ運動」を参照 1941年12月8日、太平洋戦争の一環として大日本帝国が、東南アジアへの進攻を開始した。タイへの侵攻は、陸からはフランス領インドシナから国境を越えたものと、又、海上からの上陸もあった。タイ政府は、最初は抵抗したものの、日本国軍隊のタイ国領域通過に関する協定を締結し、マレー戦争等の連合国攻撃のために、国内を通過し、軍事基地を使用することにしぶしぶ合意した。 翌年1月、ピブン首相は、英国と米国に対して宣戦を布告した。当時、プリーディーは、3人いる摂政(当時、国王はスイスに留学中であった)の内の一人として事実上降格されていたが、行方をくらまして署名しなかった。この行為自体は後にタイの宣戦布告が無効であるという主張の根拠となる。 プリーディーはタイで反日地下組織である、自由タイ運動『セリ・タイ』のネットワークを築く。コードネーム「ルース」として、同盟国や英米において活動する抗日戦線と連絡を取り合った。戦争が進行し日本の敗色が濃くなると、タイ国民の不満は拡大し、1944年ピブンは首相を辞任する。 自由タイの一員でもある文民政治家クアン・アパイウォンが、「日本人をごまかす能力」を買われ首相に就任、占領日本軍と良好な関係を保ちつつ、プリーディーとともに自由タイ運動を背後で支援した。最終的に日本が降伏すると、自由タイは、速やかに主導権を握り、「戦前の状態への回復」を指向し、摂政であるプリーディーは、「宣戦布告は不法で無効である」と主張し、ピブンが日本との間で結んだ協定を全て拒絶した。
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