羽柴秀次の出陣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 00:20 UTC 版)
「小牧・長久手の戦い」の記事における「羽柴秀次の出陣」の解説
両軍は小牧付近にて対陣状態におちいり、たがいに相手の出方をうかがっていた。4月4日、池田恒興は秀吉のもとを訪れて献策した。兵を三河に出して空虚を襲い各所に放火して脅威すれば徳川は小牧を守ることができなくなるであろうと。5日朝、恒興は秀吉のもとをまた訪れ、森長可とともに羽黒戦の恥を雪ぎたいと述べた。秀吉はついにこれを許可し、森長可らを主として支隊を編成して明6日三河西部へむけて前進すべしと命令。支隊は4月6日夜半出発した。 各隊の主な編組は以下の通り: 第一隊 - 池田恒興 - 兵5,000人 第二隊 - 森長可 - 兵3,000人 第三隊 - 堀秀政 - 兵3,000人 第四隊 - 羽柴秀次 - 兵9,000人 家康は4月7日に羽柴秀次勢が篠木(春日井市)・上条城の周辺に、2泊宿営した頃に近隣の農民や伊賀衆からの情報で秀次勢の動きを察知。4月8日、地元の丹羽氏次・水野忠重と榊原康政・大須賀康高ら4,500人が支隊として小牧を夕方に出発して、20時小幡城(名古屋市守山区)に入り、付近の敵情を探った。家康と信雄の主力9,300は20時小牧山を出発し、24時小幡城に着陣。織田・徳川軍は主力の到着にともない小幡城で軍議をおこない、兵力を二分して各個に敵を撃破することに決した。9日2時、織田徳川軍支隊は羽柴秀次勢を攻撃せんと出発した。 秀次勢は家康が小幡城に入った8日に行軍を再開し、9日未明には池田恒興勢が丹羽氏重(氏次の弟)が守備する岩崎城(日進市)の攻城戦を開始する。氏重らは善戦したが、約三時間で落城し玉砕した(岩崎城の戦い)。この間、羽柴秀次、森長可、堀秀政の各部隊は、現在の尾張旭市、長久手市、日進市にまたがる地域で休息し、進軍を待った。しかし、その頃すでに徳川軍は背後に迫っていた。
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