美津濃製オリンピア・マイゼA-1522
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「島本真」の記事における「美津濃製オリンピア・マイゼA-1522」の解説
常国隆二級滑空士の滑空機滞空日本新記録達成の後、美津濃は新たに1941年2月22日吉川精一滑空士を、美津濃グライダー製作所が製作したオリンピア・マイゼ号(登録機体番号A - 1522)に搭乗させ、滑空記録挑戦をする事となった。 オリンピア・マイゼ号は、1940年開催予定であった東京オリンピックで、制式種目となっていたグライダー競技用に製作されていた。島本真は、サポート隊の中で唯一の美津濃の社員として参加していた。重たい機体を六甲山山上へ人力で運搬する写真が残っている。まだ寒い時期で雪のちらつく中、車が通れない山道を分解された機体を数人掛かりで運び上げた。この時の記録挑戦は、六甲山から生駒を超え、三重県の明野飛行学校まで140kmの飛行に挑戦することであった。発航後、美津濃マイゼ機は2,000mの高度を取ったところで急に風向きが変わり、直下の西宮に降りてしまった。この時の吉川滑空士の帯空時間は、10数分の平凡な記録に終わった。 六甲山山上より滑空記録に挑戦した美津濃製オリンピア・マイゼ号A-1522 記録挑戦のための機体搬送で、先頭を行く島本真 六甲山山頂に美津濃製A-1522マイゼを運ぶ 島本敬一が出会ったときの美津濃マイゼ号A-1522
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