総統地下壕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/28 14:07 UTC 版)
総統地下壕(そうとうちかごう、独: Führerbunker)は、ドイツのベルリンにあった総統官邸の地下壕を指す。
- ^ David Sim (2016年10月28日). “Replica of Adolf Hitler's bunker goes on show in Berlin”. International Business Times. 2018年8月31日閲覧。
- ^ “第5回 ヒトラーが最後の日々を過ごした地下壕 ドイツ・ベルリン”. ナショナル・ジオグラフィック日本版. 2015年4月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年3月2日閲覧。
- 1 総統地下壕とは
- 2 総統地下壕の概要
- 3 戦後
総統地下壕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 22:13 UTC 版)
「ヨハン・ラッテンフーバー」の記事における「総統地下壕」の解説
1945年1月16日、ヒトラーが総統地下壕に入ると、ラッテンフーバーも同行し地下壕での警護任務に就き、2月24日に親衛隊中将に昇進する。4月28日、ヒムラーが独断で連合国と和平交渉を行っていたことが発覚し、ヒトラーはラッテンフーバーを臨時軍事法廷の判事に任命し、ヴィルヘルム・モーンケ、ハンス・クレープス、ヴィルヘルム・ブルクドルフと共にヒムラーの側近ヘルマン・フェーゲラインの裁判を行った。しかし、フェーゲラインは泥酔状態で裁判を行える状態ではなかったため、モーンケの主張により裁判が閉廷され、フェーゲラインはラッテンフーバーに引き渡された。ラッテンフーバーは腹心のペーター・ヘーグルに処置を任せ、フェーゲラインは銃殺された。 4月29日午後10時、ラッテンフーバーはヒトラーに呼び出された。後年の証言によると、ヒトラーはラッテンフーバーに以下のように伝えたという。 君は長年に渡り、忠実に私に仕えてくれた。明日は君の誕生日であり、君に祝福と忠誠への感謝の言葉を伝えたいが、私にはそれが出来ない……私はこの世界を離れる決断をしている。 4月30日、ヒトラーが自殺した後、ラッテンフーバーは地上に出て、ヘーグル、エヴァルト・リンドロフ(ドイツ語版)、ハンス・ライザー(Hans Reisser)、ハインツ・リンゲ、オットー・ギュンシェがヒトラーとエヴァ・ブラウンの遺体を焼却するのを目撃した。5月1日、ラッテンフーバーは地下壕の人々と共にベルリン脱出を決行したが、翌2日にソ連軍の捕虜となった。1951年11月16日までロシアの捕虜収容所に収容され、ヒトラーの自殺に関する厳しい尋問を受けた(この時の尋問記録は2000年になって出版された)。
※この「総統地下壕」の解説は、「ヨハン・ラッテンフーバー」の解説の一部です。
「総統地下壕」を含む「ヨハン・ラッテンフーバー」の記事については、「ヨハン・ラッテンフーバー」の概要を参照ください。
- 総統地下壕のページへのリンク