紀元前149年
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紀元前149年は、ローマ暦の年である。
- 1 紀元前149年とは
- 2 紀元前149年の概要
- 3 死去
紀元前149年
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詳細は「チュニス湖の戦い」を参照 ローマ軍はカルタゴへ移動し、海側と陸側から二度にわたって城壁を越えようと試みたものの、いずれも失敗に終わり、包囲作戦に切り替えてその地に留まった。ケンソリヌスとマニリウスはそれぞれ自軍の陣地を構えた。ケンソリヌスの陣地は主に接岸したローマ軍の船舶を守る役割を担い、マニリウスの陣地ではローマ軍団が駐屯した。一方でハスドルバルは軍隊を前線に移動させ、ローマ軍の補給線と徴発部隊に対して繰り返し攻撃を加えた。ローマ軍は巨大な破城槌を作り、城壁の一部を破壊した。そして破壊した場所へ襲撃を試みたものの、壁をよじ登る間に混乱に陥り、待ち構えていたカルタゴ軍によって撃退された。この時、第4軍団のトリブヌス・ミリトゥムであったスキピオ・アフリカヌスの養孫のスキピオ・アエミリアヌスは、命令通りには攻撃に加わらずに破壊された城壁沿いに道を開けて兵士を待機させ、前方のローマ軍がスキピオの部隊の隊列の間を抜けて逃げてきた際に追撃してきたカルタゴ軍を迎え討ち、撃退することに成功した。 ケンソリヌスが築いた陣地は立地が悪く、初夏には疫病が蔓延したため、より衛生状態の良い場所に陣地を移した。しかしながら、移動した場所は防御には向いておらず、カルタゴ軍は火船を用いてローマ艦隊に被害を与えた。ローマ軍は追加的に砦を建設することで敵の攻撃をより困難にさせたが、それでもなおカルタゴ軍は繰り返しローマ軍の陣地に攻撃を加えてきた。スキピオはしばしば混乱した戦いの中でカルタゴ軍の攻撃を阻止する役割を果たし、さらに頭角を現していった。スキピオが自分の部隊に課した規律は残りのほとんどのローマ軍の振る舞いとは対照的であった。 敵にとって優位な立地であり要塞化されていたにもかかわらず、マニリウスはネフェリスに近いカルタゴ軍の本陣に対する攻撃を決めた。そして現地に到着するとスキピオの助言に逆らって直ちに攻撃を命じた。当初は順調に攻撃を進めていたが、やがて自軍が持ちこたえられない場所まで軍を前進させてしまった。そして撤退しようとしたところをカルタゴ軍に襲われ、多くの犠牲者を出した。スキピオは300人の騎兵を率い、限定的でよく統率された一連の襲撃と威嚇を繰り返し、カルタゴ軍を足止めさせ、ほとんどの歩兵が退却を完了するための十分な時間を稼いだ。さらに、スキピオはその夜に再び自身の騎兵隊を率いて引き返し、捕らえられたローマ軍の一団を救出した。 ローマ軍の縦隊はカルタゴに近い陣地に退却したが、そこには戦況の経過を調査する元老院の委員が到着していた。その後に作成された委員の報告書におけるスキピオの活躍は特筆に値するものであった。スキピオはカルタゴ側のヌミディア人の騎兵隊の隊長数人と接触を持った後、マニリウスが率いるネフェリスのハスドルバルに対するより入念に計画された二度目の遠征に参加した。しかし、スキピオが接触したヌミディア人の一人が2,200人の兵士を引き連れてローマ軍に投降したにもかかわらず、ローマ軍は成果を上げられないまま時を過ごした。結局、マニリウスはローマ軍が食糧不足に陥ったために撤退し、一方でスキピオはローマ軍の新たな同盟者を率いて食糧を調達するための遠征に向かい、成功裏に遠征を終えた。
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