第六次侵攻と停戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 08:16 UTC 版)
「モンゴルの高麗侵攻」の記事における「第六次侵攻と停戦」の解説
1253年5月にはイェグは先年高麗に使者として来た阿豆ら16人を改めて使者として送って来たが、進展は無かった。ついに、その国王が国外へ旅するなど先例がないとして拒絶。モンケはイェグに、高麗の軍を統治するよう命じ、モンケ宮廷の高麗人の勧めにより1253年7月に侵攻を開始した。イェグはアムカン(阿母侃)を伴い、高麗に降伏を要求。高麗はこれを拒絶するが、モンゴルへの抵抗は諦め、山城や島嶼部に農民を集めはじめた。 またジャライルタイ・コルチ(札剌児帯)はモンゴルに降伏した高麗の将とともに国土を蹂躙。イェグの使者が高宗の宮廷に遣わされると、高宗はついに半島本土への帰還と、第2王子の安慶公王淐を人質に出すことを承諾。高麗の降伏を受け、モンゴルは1254年1月に停戦に応じた。しかし、高麗朝廷上層部は江華島に残留していた。 第五次侵攻では、捕虜となった者が20万6千800余人、死者は「骸骨野を蔽う」ほどであったという。
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