第二次千島拓殖
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 09:55 UTC 版)
千島から帰還した郡司は召集され、水雷敷設隊の分隊長などとして日清戦争に参加した。防材破壊に使用する爆薬の不足に悩んでいた鈴木貫太郎に爆薬を提供したのが郡司である。戦争終結後、報效義会の再生を図って来た千島の重要性を説く演説などを続けた。こうして、1896年(明治29年)の初夏ごろには、会員数57人の第二次報效義会を結成する。この第二次報效義会は、参加者の中に郡司の妻など女性も14人含まれており、探険的要素も強かった前回とは違って拓殖のみがその目的であった。また、谷干城らの尽力によって「報效義会保護案」が議会で成立し、3年間補助金が政府から出ることも決まった。 同年9月に占守島に渡った第二次報效義会は、前準備がしっかりしていたこともあり、今度は着実に成果を上げていくことになる。開拓本部には魚肉の缶詰工場や鍛工場が建設され、幌筵島には分村が作られた。会員も増加していき、1903年(明治36年)には、占守島の定住者は170人(男100人、女70人)にまで膨らんでいた。しかし、この頃から会の中には徐々にきしみが見え始めるようになる。
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