第二次世界大戦までの運行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/10 16:02 UTC 版)
「ホワイト・パス・アンド・ユーコン・ルート」の記事における「第二次世界大戦までの運行」の解説
ゴールドラッシュは終わってしまったので、金よりも銅・銀・鉛などの他の鉱物を求めて本格的な鉱業が行われるようになった。もっとも近い港はスカグウェイであり、そこへ行く唯一の道はホワイト・パス・アンド・ユーコン・ルートが運営する河川の船と鉄道であった。 この鉄道では鉱石や精鉱が輸送需要の大半を占めたが、旅客やその他の貨物も輸送した。長い間、ユーコンへ行く容易な手段は他になく、またスカグウェイからは海路を使う以外に手段がなかった。 ホワイトホースからカーマックス (Carmacks) まで鉄道を延長するための資金と経路は準備が整っていたが、河川交通が混乱しておりボトルネックとなっていた。会社は鉄道を延長する代わりに資金を河川の船舶のほとんどを買収するために投じ、ホワイトホースとドーソン・シティを結ぶ安定した信頼できる交通手段を提供した。 ホワイト・パス・アンド・ユーコン・ルートは、ホワイトホースからフォートセルカークまでの線路は結局建設しなかったが、1900年以降にいくらかの鉄道の延長工事を行っている。1901年にタク (Taku) の当局によりタク軌道 (Taku Tram) という2.5 マイル (4 km) の連水鉄道が建設され、これは1951年まで運行していた。この軌道では、タギッシュ湖 (Tagish Lake) で運航しているツチ号 (S.S. Tsutshi) と、アトリン湖をアトリン (Atlin) まで運航しているタラーネ号 (M.V. Tarahne)を連絡して旅客と貨物を運んでいた。ツチ号は1990年に不審火で焼失したが、タラーネ号は復元されて殺人事件推理劇のショーを含むディナーを提供する船として運航されている。ツチ号を復元するために建造された救命艇はタラーネ号へ提供された。タク軌道では車両を転回することもできず、西向きに運行するときはバック運転を行っていた。ここで使われていた機関車の「ダッチェス」(Duchess) は、カークロスで保存されている。 1910年、ホワイト・パス・アンド・ユーコン・ルートは、ホワイトホース近郊の鉱業地帯であるプエブロ (Pueblo) までの支線を運行するようになった。この支線は1918年に廃止された。貨物運搬用の道路がその跡を通っているが、多くの部分はバリケードで封鎖されている。1980年代のホワイトホース・スター紙の論説では、アラスカ・ハイウェイがホワイトホースを迂回してバイパスを建設する必要がある場合は、この経路が理想的であろうとしている。 ドーソン・シティのクロンダイク・マインズ鉄道 (Klondike Mines Railway) など、ユーコンにおけるほかのすべての鉄道が1914年までに廃止されたのに対し、ホワイト・パス・アンド・ユーコン・ルートは営業を続けた。 世界恐慌の時期には交通需要は非常に少なくなり、しばらくの間1週間に1本の列車だけ運行された。
※この「第二次世界大戦までの運行」の解説は、「ホワイト・パス・アンド・ユーコン・ルート」の解説の一部です。
「第二次世界大戦までの運行」を含む「ホワイト・パス・アンド・ユーコン・ルート」の記事については、「ホワイト・パス・アンド・ユーコン・ルート」の概要を参照ください。
- 第二次世界大戦までの運行のページへのリンク