第一発見者の証言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 04:44 UTC 版)
加えて検察側に疑義が呈されたのは、遺体の第一発見者の供述の、ある部分についてであった。事件当夜、国道49号を遠藤車とは逆方向に、いわき市方面から新潟市方面へ走行していた第一発見者の車は、新潟交通のバスに追い越されて1分から1分半後にクランクへ差しかかっている。そして、その際の状況を第一発見者は次のように公判で証言した。 事故現場から約二キロメートル近くある平掘の元ボーリング場付近で新潟交通のバスに追い越された。そのあとは追い越して行った車はないと思う。バスに追い越されたのが最後だったと思う。バスに追い越されたあとで妻を降ろした。平堀付近で連なって走って来た乗用車とすれ違い、津川の町なかでトラックとすれちがった。〔中略〕トラックとすれちがってからあとは、すれちがった車はないし追い越して行った車もない。事故現場にさしかかって路上に人らしいのを発見し、車から降りて見たら頭が砕けて血が出ていた。 — 第一発見者の一審供述より 第一発見者は、バスに追い越された直後に現場で被害者の遺体を発見したと語っているが、現場に到達するまでに追い越し車両はなく、現場までにすれ違ったトラックも一台のみであったという。そして検察側は、第一発見者がクランク手前ですれ違ったそのトラックこそが遠藤車である、と断定した。 ところが、そのトラックの特徴を尋ねる検察側の質問に対しては、第一発見者は「四角い箱みたいな感じ」の荷台をした、冷凍車のような形状の車両であったと第7回公判(1977年12月20日)で述べている。空荷の平ボディという遠藤車の外観とは食い違うこの目撃証言に対し、検察側は、目撃したトラックについて第一発見者が「すれ違った車は少なくとも冷凍車ではなかった」と正反対の供述をしている検面調書(1977年10月12日付)を第14回公判(1978年8月29日)で提出した。 この矛盾について追及された第一発見者は、同第14回公判において、検面調書の内容の方が「記憶の新しい時に述べているので正しいと思う」と証言した。しかし、第一発見者は同公判において、この検面調書は「お前の記憶は間違っている」と検察官に説得されて作られたものであり、「自己の記憶に反して不本意」なものであるとの不満も述べている。
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