竹村健一
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竹村 健一(たけむら けんいち、1930年〈昭和5年〉4月7日[1] - 2019年〈令和元年〉7月8日)は、日本のジャーナリスト、政治評論家[2]。1989年第5回『正論』大賞受賞[3][1]。
- ^ a b c d e f g h i j k 『現代日本人名録2002』3 p343 (2000年1月)
- ^ 自著では職業の肩書きはないと語っており、名刺にも「竹村健一」とだけ表記している(『この人が忘れられない 私が出会った素晴しき一流人間37人』)
- ^ 正論大賞の歴史
- ^ それから1年後に山陽特殊製鋼は倒産する。
- ^ 「竹村健一さん盗用 月刊誌から著書に転載」『中日新聞』1982年9月4日付
- ^ 「竹村健一センセイ『盗作事件』一部始終」『週刊現代』1982年9月25日号
- ^ 「今週のことば ビジネス誌からの盗作で謝罪と回収 こうしたトラブルは初めて」『週刊文春』1982年9月16日号
- ^ 「紳士と淑女 ビジネス雑誌の中身をそっくりいただいて本を書いていたことを謝った」『諸君!』1982年11月号
- ^ 「NYのマンハッタンで竹村健一の壁画を発見 アデランスCM撮影用の残骸」『噂の眞相』1991年9月号、p.9
- ^ [1]
- ^ “評論家・竹村健一さん死去 パイプ姿「だいたいやねえ」”. 朝日新聞デジタル (2019年7月11日). 2019年12月16日閲覧。
- ^ 評論家の竹村健一さん死去 89歳 パイプ片手に「だいたいやねえ…」 - 毎日新聞 2019年7月11日
- ^ 竹村健一『つき合い方人間学』青春出版社、p.221
- ^ a b c 井上ひさし『ベストセラーの戦後史 2』「マクルーハンの世界」
- ^ 青木貞伸、井家上隆幸、植田康夫「座談会 テレビは出版を変えたのか!?」『創』1982年8・9月合併号、pp.20-21.
- ^ “追悼・竹村健一さん 強面評論家が海外取材で見せた素顔”. ポストセブン (2019年7月23日). 2019年7月23日閲覧。
- ^ “我がマスコミ人生「流行語を生み出す時代の寵児に」”. 竹村健一資料館. 2015年3月22日閲覧。
- ^ 『タモリ学』(イースト・プレス)「大タモリ年表・1976年(31歳)」のページ
- ^ 『人生のレールは一本ではない -悔いのない生き方をしよう-』三浦雄一郎・竹村健一 共著、2007年、太陽企画出版、27頁より「(竹村健一の)父は、兵庫県の生野という町からずいぶん奥に入った黒川村という寒村の生まれです。長男だったけど、戸数が10軒ほどしかない村の暮らしに飽きたらず、次男に家督を譲り、自分から勘当されるようにして大阪に出てきた」
- ^ 1979年4月以降は「ルックルックこんにちは」内で放送
- ^ 竹村健一 - オリコンTV出演情報
- ^ Jタウンネット編集部: “竹村健一「アデランス」CMの巨大壁画 今もニューヨークの街に残っていた”. Jタウンネット. ジェイ・キャスト (2019年7月17日). 2022年11月11日閲覧。
竹村健一
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中曽根は竹村を畏友と評し、竹村とは中曽根がまだ、総理、総裁候補だった頃からの付き合いであった。その当時から「体の中に国家を持っている」政治家として、竹村は中曽根を敬愛し続けているという。「竹村会」という勉強会の1月の全国大会では、毎年中曽根が基調講演を行っている。
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