秦の遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 08:07 UTC 版)
223年に楚を滅ぼした秦の始皇帝は、221年に嶺南の百越、すなわち現在の華南や北ベトナムにあたる地域の征服に取り掛かった。 始皇帝は50万人の大軍を5隊に分けて南下させ、越を秦の領域に併合しようとした。また別の記録によれば、10万人の後方支援部隊が物資補給や道路の整備を担った。当時の嶺南はまだ青銅器時代に入ったばかりで、人口も希薄だったとされる。秦の侵攻時、嶺南の人口は多くても10万人ほどだった。 南方の莫大で豪華な物産に惹かれていた始皇帝は、北方の匈奴に対する戦線よりも、むしろ百越を征服するための南方戦線に多数の兵力を割いた。浙江南部の甌越や福建の閩越は、まもなく秦の属国となった。しかし広東・広西では、秦軍は激しいゲリラ抵抗にあった。このころ、華南は広大で肥沃な地で、米の栽培に適し、東南アジアから象牙や犀角、カワセミ羽、真珠、翡翠製品、その他多くの豪華な貿易品がもたらされる地として知られていた。秦の「中国統一」以前は、百越は四川の大部分を中心に南西地域を支配していた。ここにやってきた秦軍は、慣れないジャングルに苦しめられた末に、越族のゲリラ攻撃を受け、主将の屠睢をはじめ1万人が殺されるという壊滅的な敗北を喫した。しかし始皇帝は南方進出を諦めず、百越を中国化する試みを続けていった。
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