禁制論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 06:38 UTC 版)
個人がいだいている「禁制(タブー)」の起源は、じぶん自身にたいして明瞭になっていない意識からやってくる。〈黙契〉では、人は共同体の中で怖れや崇拝を対象にした時に、その人の意識が共同体から赦(ゆる)されてなれ合っている。それに対して〈禁制〉では、人はどんなに共同体の内部にあるようにみえても、神聖を強要され、その人は共同性から全く赦(ゆる)されていない。吉本はわたしたちの思想の土壌では、〈黙契〉と〈禁制〉とはほとんど区別できていないとし、『遠野物語』の「山人譚」はこの2つが混融された資料であると述べている。そこに描かれた山人にたいする村落共同体の〈恐怖の共同性〉からは、1.判断力の低下による起きていながらの〈入眠幻覚〉と、2.村落共同体から離れたものは、恐ろしい目に合い不幸になるという〈出離〉の心の体験を、抽出することが出来るという。吉本は〈禁制〉が生み出される条件は、〈入眠幻覚〉と、〈出離〉の心の体験を生み出す弱小な生活圏(村落共同体)の2つであり、現実と理念との区別が失われた心の状態でたやすく「共同的な禁制」を生み出すことが出来るとし、その生み手は貧弱な共同社会そのものであるとした。
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