看板職人時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 23:33 UTC 版)
高等小学校卒業後1924年に札幌の中野看板店へ徒弟奉公し大型の映画看板やポスターの制作を学び、仕事柄映画館の出入りが無料だったことから盛んに映画鑑賞をし映画のカメラアングルや照明効果が後の観光ポスターの作風に大いに役立つこととなった。また中野看板店時代には後に日本宣伝美術会の事務局長を務める兄弟子の板橋義夫に刺激を受ける。1927年には小樽松竹座専属となった中野看板店店主の弟について小樽へ移住し映画看板職人となり月給を貰うようになる。 1931年には函館松竹座の専属看板職人として独立。1932年には2週間東京に滞在し最新の映画ポスターや看板などを学んだ後軽度の肺結核により養母の住む栗山で療養、その後東京で目にした洗練された技法を参考とした看板は同業者からも注目を浴び函館市内の映画看板には栗谷川の手法を真似たものが多く見受けられるようになり、またこの頃から映画看板にとどまらないデザイナーへの憧れを強める。また美術団体「図案研究会」も立ち上げ棒二森屋にてグループ展を開催、しかし1933年には小林多喜二虐殺事件の抗議ポスターを制作し函館市内に貼り出したことをきっかけに特高警察に逮捕され20日間拘留の後釈放されるも1945年の終戦まで毎月特高警察職員が自宅を訪れ消息を確認していた。同年秋には渡辺静江と結婚。
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