相良義陽(さがら よしひ) 1544~1581
○万満丸 四郎太郎 頼房 義頼 遠江守 修理大夫
◇父:相良晴広 子:相良忠房、宮内大輔頼房、長誠
12歳で肥後・相良氏当主となる。内乱を治めて国をまとめ上げ、勢力を伸ばす。度々薩摩・島津氏と争うが、やがて水俣城を攻略され、領地割譲と豊後・大友方阿蘇氏臣の甲斐親直(宗運)攻略を条件に和議。義陽と宗運は盟友であったが、やむなくこれを攻撃し、響ヶ原にて敗北。落ちることなく床几に座したまま、甲斐氏臣緒方喜蔵に斬られた。38歳。響ヶ原は攻めるに易く、守るに難い地で、義陽は友の為、わざとここに陣を張ったともいわれる。宗運は義陽の死に際し、「これで島津氏の北上を妨げる者はなくなり、阿蘇氏の命運はあと3年だろう」と言っている。
◇父:相良晴広 子:相良忠房、宮内大輔頼房、長誠
12歳で肥後・相良氏当主となる。内乱を治めて国をまとめ上げ、勢力を伸ばす。度々薩摩・島津氏と争うが、やがて水俣城を攻略され、領地割譲と豊後・大友方阿蘇氏臣の甲斐親直(宗運)攻略を条件に和議。義陽と宗運は盟友であったが、やむなくこれを攻撃し、響ヶ原にて敗北。落ちることなく床几に座したまま、甲斐氏臣緒方喜蔵に斬られた。38歳。響ヶ原は攻めるに易く、守るに難い地で、義陽は友の為、わざとここに陣を張ったともいわれる。宗運は義陽の死に際し、「これで島津氏の北上を妨げる者はなくなり、阿蘇氏の命運はあと3年だろう」と言っている。
相良義陽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/28 10:20 UTC 版)
相良 義陽(さがら よしひ[注釈 2])は、戦国時代から安土桃山時代にかけての肥後の武将、戦国大名。相良氏の第18代当主。初名は頼房で、将軍・足利義輝の偏諱を受けて、義陽とした。
注釈
- ^ a b c 『南藤蔓綿録』の記述による。但し、池田公一編著『中世九州相良氏関係文書集』に所収された文書では、足利義輝から「義」の字を下賜された以後、永禄10年8月に「義陽」の字を使っているものの、翌月から天正元年9月まで「頼房」と記名、同年10月から「義陽」を使用しており、それまでに「義頼」の名を使用した形跡は見当たらない。但し、『群書類従 永禄六年諸役人附』には、義陽の名を「相良修理大夫義頼」と記名している。
- ^ 「(年未詳)相良義陽書状写」(「熊本県立図書館文書」、『八代日記』)の差出に「よしひ」とある[1]。
- ^ 母の実家。
- ^ 八代市鏡町。印鑰神社 の傍にあったが、現在は廃寺。
- ^ 在水俣市久木野。別名として、鶴平城、岩群城、岩峰城とも言う[2]。
- ^ 在あさぎり町岡原南。
- ^ 現・宮崎県えびの市。『南藤蔓綿録』には薩摩飯野と書かれているが、飯野は日向国であるため誤記。
- ^ 『日向記』の日付。『八代日記』は5月14日。
- ^ 伊東氏の史料『日向記』には合力して攻めた(相良側には軍功なし)とあるが、相良氏の史料『八代日記』には、伊東氏が城へと動き落城した 程度の記述しかない。
- ^ 大口城の城番は半年毎の交代制であるが、島津領へ侵攻したとする『南藤蔓綿録』の3度の記述のうち2度は長任が城番のとき。
- ^ 現・八代市古麓町。
出典
- ^ a b c 小久保嘉紀「将軍偏諱の授与とその認知―相良義陽の事例から―」『九州史学』173号、2016年。/所収:木下昌規 編『足利義輝』戎光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究 第四巻〉、2018年。
- ^ みなまたの伝説「久木野城」
- ^ 服部英雄「戦国期相良氏の誕生」『日本歴史』388号、1980年。
- ^ 『人吉市史』
- ^ 『明赫記』 鹿児島県史料集(27)(鹿児島県史料刊行委員会)
- ^ 橋本政宣『近世公家社会の研究』吉川弘文館、2002年。ISBN 4-642-03378-5。
- ^ 池田こういち 2005.
- ^ “相良堂(さがらどう)”. 熊本県. 2013年12月14日閲覧。
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固有名詞の分類
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