皇帝軍蜂起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 14:32 UTC 版)
洛陽にいた司馬越は司馬穎の振る舞いに憤り、7月には百官や殿中の諸将に司馬穎を討つよう命じ、羊献容を皇后に、司馬覃を皇太子に復位させた。司馬越は大都督となり、恵帝と共に鄴へ向けて軍を発した。皇帝軍が進軍すると各地で義兵が集結し、魏郡の安陽県に入る頃には10万人余りに規模が膨れ上がったため、鄴の人々は朝廷軍の到来を恐れて震え上がった。司馬穎は逃走しようと考えたが、掾の歩熊は占いを用いて「動くことなかれ。南軍は必敗する」と告げたので思いとどまった。 司馬穎は幕僚と軍議を開くと、東安王司馬繇は「天子が親征しているのです。武装を解いて出迎え、罪を請うべきでしょう」と勧めた。折衝将軍喬智明も帝の乗輿を奉迎するように進言したが、司馬穎は大いに怒り「卿は名声が知れ渡っており、私に身を委ねている。主上(恵帝)は群小の者どもに無理やり迫られて、偽の罪状で私を誅しようとしている。にもかかわらず、卿は私に手を縛られて刑に服せと言うのか。共に義を為すのはまさに今ではないのか」と叱責した。司馬王混と参軍崔曠が抗戦を進めると、司馬穎はこれに従い、石超に5万の兵を与えて防戦を命じ、蕩陰に進軍させた。 皇帝軍の参謀であった陳眕の弟であった陳匡と陳規は鄴城にいたが、隙を見て逃走して皇帝軍の陣営へ至ると「鄴城内は人心が離散しています」と報告したので、司馬越らは油断して警戒を怠るようになった。司馬穎軍の将軍の石超はこの機を逃さず皇帝軍の本営を急襲した。皇帝軍は蕩陰で大敗を喫し、恵帝自身にも三本の矢が当たって顔を怪我した。百官や侍御は慌てて四散してしまい、身を挺して恵帝を庇ったのは嵆紹だけであった。石超は恵帝の身柄を確保すると陣営に戻り、司馬穎はこれを聞くと盧志を派遣して恵帝を鄴に招き入れた。陳眕と上官巳は皇太子司馬覃を奉じて洛陽を固守し、司馬越は封国の東海国に帰った。
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