嵆紹
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嵆 紹(けい しょう、嘉平5年(253年)- 永安元年7月24日(304年9月9日))は、中国西晋の政治家。字は延祖。父は竹林の七賢の一人であり、魏の中散大夫であった嵆康。子は嵆眕。譙国銍県(現在の安徽省淮北市濉渓県)の人。『晋書』の忠義伝の筆頭に記載されている。
- ^ 「臣が聞くところによりますと、前の轍を改める者は車を傾けず、往時の弊害を革める者は政を間違えないといいます。太一は元首を統べ、百司は多くの士を使役しました。故に周文(周の文王)は上を興し、成康(周の成王・康王)は下を穆した(穏やかに静めた)のです。『存して亡ぶるを忘れず(存続している時にも常に亡びる事を忘れない)』とは『易』の善義であります。願くば、陛下が金墉を忘れず、大司馬が潁上を忘れず、大将軍が黄橋を忘れる事のありませんよう(司馬倫の時代、恵帝は金墉城に幽閉され、大司馬司馬冏は潁上で敗れ、大将軍司馬穎は黄橋で敗れた)。そうすれば、禍乱の萌が兆す事は無いでしょう」
- ^ 「夏禹(夏王朝の始祖である禹)は卑室(質素な宮殿)である事により称賛を受け、唐虞(堯と舜)は茅茨(粗末な邸宅)である事により徳を明らかにしました。いくら家を大きくして富ませても、無益でありむしろ危亡を招きます。第舎を広くする為に太楽を毀敗し、力を尽くして三王(斉王司馬冏・成都王司馬穎・河間王司馬顒)の為に邸宅を建てておりますが、はたして今日先を急いでやる事でしょうか!今、大事は定まり始めたばかりであり、万民は粛敬としながら、潤いがもたらされるを待っているのです。起造の煩いを省き、謙損の理について深く考えるべきです。復主(恵帝の復位)の功績を棄てるべきではありませんが、矢石の殆(戦乱の危機)もまた忘れてはなりません」
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