生い立ちとデビューまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 08:14 UTC 版)
「アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー」の記事における「生い立ちとデビューまで」の解説
ウィーンにて多文化的な家庭環境に生まれる。父方の祖父アントン・ゼムリンスキ (Anton Semlinski) はバルカン半島のヴォイヴォディナ出身のアシュケナジム系ユダヤ人で、ハンガリーからオーストリアに移住し、おなじくユダヤ系オーストリア人の女性と結婚した。ゼムリンスキ夫妻はいずれもローマ・カトリック信者であった。そのためツェムリンスキーの父アドルフは、カトリック教徒として洗礼を受けている。ツェムリンスキーの母クララ・セモ (Clara Semo) はサラエヴォ(現・ボスニア・ヘルツェゴビナ)出身で、セファルディ系ユダヤ人の父親と、ボスニア出身のムスリムの母親との混血であった。ツェムリンスキーは、両親がユダヤ教に改宗したため、ユダヤ人として養育された。また父親は、祖先に授爵された者がないにもかかわらず、姓の前に前置詞「フォン (von)」を添えるようになり、また Semlinski ではなく Zemlinszky と綴るようになった。 少年時代からピアノを始めて、休日にはシナゴーグでオルガンを弾くようになり、1884年にはウィーン音楽院にも入学した。ピアノをカール・ツェルニー門下のアントン・ドーア(英語版)に師事し、1890年にピアノ科で表彰される。その後まもなくロベルト・フックスに作曲を師事し、作品を書き始める。 ツェムリンスキーは、ヨハネス・ブラームスの有力な後押しに恵まれた。《クラリネット三重奏曲 ニ短調》作品3(1896年)を出版するようジムロック社に推薦してくれたのもブラームスだった。1895年にツェムリンスキーが結成したアマチュア・オーケストラ「ポリュヒュムニア」 (Polyhymnia) において、チェリストとして入団したシェーンベルクと出会う。二人は親しい友人となっただけでなく、後にシェーンベルクがツェムリンスキーの妹マティルデと結婚したことから、義理の兄弟となった。ツェムリンスキーはシェーンベルクに対位法の指導を行なっているが、これは結局シェーンベルクが受けた唯一の公式な音楽教育となった。ツェムリンスキーの門弟はほかに、アルマ・マーラーやカール・ヴァイグル、エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトらがいる。 1897年に《変ロ調の交響曲》がウィーンで初演され、成功を収めた。1899年にはウィーン・カール劇場の楽長に就任。1900年にグスタフ・マーラーがウィーン宮廷歌劇場にて歌劇《昔あるとき (Es war einmal...)》の初演を指揮すると、作曲家としての名声はさらに高まった。
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