生い立ちとアタベク政権の樹立とは? わかりやすく解説

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生い立ちとアタベク政権の樹立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 04:33 UTC 版)

ザンギー」の記事における「生い立ちとアタベク政権の樹立」の解説

ザンギーの父アーク・スンクルはマリク・シャーによりシリア北部大都市アレッポ任されていたが、半独立動き見せたため、1094年ダマスカスダマスクス)にシリア・セルジューク朝立てたトゥトゥシュによって殺害された。ザンギーは北メソポタミアジャズィーラ)の都市モースルアタベク領主)、ケルボガ(カルブーカ)によって育てられた。 1127年バスラ司令官勤めていた頃、アッバース朝カリフセルジューク朝スルタン対す反乱起こった際、彼はスルタン呼ばれて活躍した。この反乱とは、1118年バグダード大セルジューク朝のスルタン・ムハンマド・タパルが亡くなったとき、その死後混乱乗じ同年カリフ継いだばかりのアル・ムスタルシドが、往年のアッバース朝カリフ栄光復活目指して、ムハンマド・タパルの子で跡を継いだばかりのイラク・セルジューク朝スルタン・マフムード2世対し徐々に圧迫続け、ついに1127年起こした反乱であったバグダード出兵したザンギーマフムード2世守って戦い、アル・ムスタルシドを破り宮殿幽閉させた。この功績によりモースル太守任命され、翌1128年当時モースル付属するとされていたアレッポ入城し支配下収め本拠とした。 彼はアレッポのかつての王、シリア・セルジューク朝リドワーン王の娘で、以前のアタベク・イル・ガーズィーおよびバラクアルトゥク朝)の未亡人だった女性と結婚アタベクとなり、アタベク政権ザンギー朝打ち立てた。彼はマフムード2世より北メソポタミアジャズィーラ)とシリアにおける権威保証取り付け大セルジューク朝に代わってシリア十字軍からの奪還進めることになる。

※この「生い立ちとアタベク政権の樹立」の解説は、「ザンギー」の解説の一部です。
「生い立ちとアタベク政権の樹立」を含む「ザンギー」の記事については、「ザンギー」の概要を参照ください。

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