狸の死人憑
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江戸時代後期の幕臣(小十人頭、のちには、持弓之頭)であった宮崎成身は、幕府の編纂事業に従事している。文政13年(1830年)頃から30年以上に亘って成身が編纂した雑録『視聴草(みききぐさ)』(全178冊)は、政治・事件・災害など様々な出来事について記録されているが、怪談奇譚の類いも数多く収められており、その中の一つに、狸による死人憑の話、すなわち「死人(しびと)に狸が憑いた」という話がある。それは次のようなことである。 文政11年3月(西暦換算〈以下同様〉:1828年の4月か5月)、やちという老婆が江戸の屋敷に仕えていたが、あるとき突然気絶した。数時間後に回復した後、四肢の自由は失われていたが、食欲が10倍ほどに増し、陽気に歌うようになった。不安がった屋敷の主が医者に見せると、やちの体には脈がなく、医者は奇病というしかなかった。やがて、やちの体は痩せ細り、体に穴が空き、その中から毛の生えた何かが見えるようになった。秋が過ぎた頃、冬物を着せようと着物を脱がせると、着物には獣らしき体毛がおびただしく付着していた。枕元には狸の姿が現れるようになり、ある夜からは枕元に柿の実や餅が山積みに置かれるようになった。やちが言うには、来客が持参した贈り物とのことであった。読み書きもできないはずのやちが、不自由のはずの手で和歌を紙にしたためることもあった。やちの食欲は次第に増し、毎食ごとに7膳から9膳もの飯、毎食後に団子数本ときんつば数十個を平らげた。やがて、同年11月2日(1828年12月8日)、やちの部屋に阿弥陀三尊の姿が現れ、やちを連れてゆく姿が見えた。やちの体からは老いた狸が抜け出して去ってゆき、残されたやちの体は亡骸と化していた。やちの世話をしていた小女の夢に狸が現れ、世話になった礼を言い、小女が目覚めると礼の品として金の盃が置かれていたという。
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