父の早世とハインリヒ4世の自立とは? わかりやすく解説

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父の早世とハインリヒ4世の自立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 09:51 UTC 版)

ザクセン戦争 (ハインリヒ4世)」の記事における「父の早世とハインリヒ4世の自立」の解説

中世ドイツ最強とも評価される皇帝ハインリヒ3世イタリア遠征後の1056年39歳死去する状況一変した遺児ハインリヒ4世皇帝後継者としてローマ王即位していたがわずか6歳であり、母アグネスがその摂政となったが、ローマ教皇選出に際して2人意向は全く無視され枢機卿団による互選コンクラーベ)によって選出された。それどころか、教皇ステファヌス9世は幼帝ハインリヒ4世廃し、みずからの兄であるロレーヌ公ゴドフロワ3世への戴冠画策した。ステファヌス10世は程なく没したが、ハインリヒ4世自身1062年には母アグネスから引き離されケルン送られ軟禁態となり、ドイツ諸侯意のままになるほかないよう事態まで発生し王妃ベルタサヴォイア伯オッドーネの娘、後に皇后)さえ諸侯押しつけられた。こうして帝国は、アグネス以後ケルン大司教アンノ2世つづいてブレーメン大司教アーダルベルト摂政下に置かれた。 ハインリヒ4世1065年成年達すると親政開始し結婚3年後1069年にはヴォルムス開かれた諸侯会議結婚無効訴えたが、かなわなかった。しかし、王妃ベルタハインリヒ4世をささえ、やがて2人力を合わせて味方集め諸侯からの自立図ったザクセンにあった王室財産取り戻して国王直轄領をつくるべく努力しオストマルク辺境伯拘留つづいてバイエルン大公オットー・フォン・ノルトハイムからバイエルン大公領を没収して、与党ヴェルフ家ヴェルフ1世与えたザクセンではハインリヒ4世の特別の保護の下で、多くの城の周囲山脈配する城塞建設計画立てられた。なかでもハルツ城(ドイツ語版)は最も突出した城塞ザクセン人脅威あたえた。そこはシュヴァーベン出身ミニステリアーレ帝国直属家人)であふれかえっていた。

※この「父の早世とハインリヒ4世の自立」の解説は、「ザクセン戦争 (ハインリヒ4世)」の解説の一部です。
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