父の早世とハインリヒ4世の自立
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「ザクセン戦争 (ハインリヒ4世)」の記事における「父の早世とハインリヒ4世の自立」の解説
中世ドイツ最強とも評価される皇帝ハインリヒ3世がイタリア遠征後の1056年に39歳で死去すると状況は一変した。 遺児ハインリヒ4世は皇帝の後継者としてローマ王に即位していたがわずか6歳であり、母アグネスがその摂政となったが、ローマ教皇の選出に際しては2人の意向は全く無視され、枢機卿団による互選(コンクラーベ)によって選出された。それどころか、教皇ステファヌス9世は幼帝ハインリヒ4世を廃し、みずからの兄であるロレーヌ公ゴドフロワ3世への戴冠を画策した。ステファヌス10世は程なく没したが、ハインリヒ4世自身も1062年には母アグネスから引き離されてケルンに送られ、軟禁状態となり、ドイツ諸侯の意のままになるほかないような事態まで発生し、王妃ベルタ(サヴォイア伯オッドーネの娘、後に皇后)さえ諸侯に押しつけられた。こうして帝国は、アグネス以後はケルン大司教アンノ2世、つづいてブレーメン大司教アーダルベルトの摂政下に置かれた。 ハインリヒ4世は1065年に成年に達すると親政を開始し、結婚3年後の1069年にはヴォルムスで開かれた諸侯会議で結婚の無効を訴えたが、かなわなかった。しかし、王妃ベルタはハインリヒ4世をささえ、やがて2人は力を合わせて味方を集め、諸侯からの自立を図った。ザクセンにあった王室財産を取り戻して国王直轄領をつくるべく努力し、オストマルク辺境伯を拘留、つづいてバイエルン大公オットー・フォン・ノルトハイムからバイエルン大公領を没収して、与党のヴェルフ家のヴェルフ1世に与えた。 ザクセンではハインリヒ4世の特別の保護の下で、多くの城の周囲に山脈を配する城塞建設計画が立てられた。なかでもハルツ城(ドイツ語版)は最も突出した城塞でザクセン人に脅威をあたえた。そこはシュヴァーベン出身のミニステリアーレ(帝国直属の家人)であふれかえっていた。
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