無政府時代以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 00:35 UTC 版)
「ノルマン・コンクエスト」も参照 アンジュー伯は長い間、ノルドウェスト(フランス北西部)で勢力を誇ってきた。アンジュー伯はノルマンディー公国 やブルターニュ公国 、場合によってはフランス王とさえ敵対し続けてきた。フルク4世はトゥレーヌ 、メーヌ 、ナントの支配権を要求し続けてきたが、シノン、ロシュ、ルーダン等の諸城を築くことでトゥレーヌのみ効果的に支配できた。フルク4世は息子のフルク5世をメーヌの相続人であるエランブール・デュ・メーヌと結婚させることでアンジューを統一した。アンジュー朝が成功を収めている間に宿敵のノルマンディー公国はイングランドを征服し、ポワティエ家はガスコーニュ公およびアキテーヌ公に、ブロワ伯はシャンパーニュ伯になった。 イングランド王ヘンリー1世碩学王は兄のノルマンディー公ロベール短袴公を破ったことにより、ノルマンディー公領を自分のものにし、兄の息子ギヨーム・クリトン(クリトンはギリシャ語由来の貴公子の意。1127年にフランドル伯となる)を敵に回し、ギヨーム・クリトンは父方の相続権を理由にノルマンディー公及びイングランド王位を請求した。ヘンリー1世はフランドルに対抗するために唯一の嫡子であるウィリアム・アデリン(アデリンはゲルマン語由来の「高貴な」)とフルク5世の娘を結婚させることでアンジューと同盟を結ぼうと試みたが、ウィリアム・アデリンは1120年のホワイトシップの遭難で死亡した。そこでヘンリー1世は娘マティルダをアンジュー伯ジョフロワ5世と結婚させようとしたが、そのためにはアングロ・ノルマン人達がマティルダの王位継承を認める必要があった。これ以前の中世ヨーロッパにおける女王はウラカが唯一であり、それは奨励されることではない先例として見做されていた。にもかかわらず、1127年1月にアングロ・ノルマン人の有力諸侯(バロン)や高位聖職者はマティルダを王位継承者であることを認めて誓約した。1128年 6月17日にル・マンで婚姻が祝われた。
※この「無政府時代以前」の解説は、「アンジュー帝国」の解説の一部です。
「無政府時代以前」を含む「アンジュー帝国」の記事については、「アンジュー帝国」の概要を参照ください。
- 無政府時代以前のページへのリンク