漢軍との戦いとは? わかりやすく解説

漢軍との戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 07:00 UTC 版)

荘尤」の記事における「漢軍との戦い」の解説

その後時期不明だが、荘尤納言将軍(「納言」は大司農に相当)として復帰し地皇3年22年)、秩宗将軍陳茂と共に王常率い荊州の反新軍である下江軍を撃破している。しかし、翌地皇4年23年)、荘尤陳茂は、劉縯率いる反新軍育陽南陽郡)で敗北した。そのため、荘尤陳茂は、荊州更始帝劉玄)を討伐するための大司空王邑大司徒王尋新軍主力部隊合流している。 同年5月、漢(更始帝政権)の大司徒となっていた劉縯は、宛(南陽郡荊州中心地)を攻撃した。しかし王邑らは、宛に向かう前に、漢に占領されていた昆陽潁川郡)をまず包囲陥落させようとした。荘尤は、劉縯討ち取ることが重要であるとして宛への攻撃進言したが、王邑らは聞かず昆陽包囲し続けたまた、昆陽立て籠もっていた漢軍の王鳳降伏しようとすると、王邑はこれを赦さず、さらに包囲強める。荘尤は、戦意失っている敵に対しては、逃げ道一方向だけ作るべきである旨を進言したが、これも受け入れられなかった。その結果王鳳らは必死になって新軍抵抗してしまう。昆陽攻略梃子摺っている間に、宛は劉縯陥落させられ、さらに翌月昆陽城を脱出していた漢軍の劉秀援軍連れて戻り王邑らの軍は大敗喫した(昆陽の戦い)。 荘尤陳茂は譙(沛郡)へ逃れ、ここで新を見限り漢朝将軍号した。この時の荘尤は、新は滅亡すべきで漢が復興すべきであると、沛の官吏民衆に対して演説し一方陳茂は地に伏して哭泣したという。しかし荘尤陳茂は、荊州更始帝には降らなかった。更始元年23年8月、漢では鍾武であった劉望『漢書』では「劉聖」)が汝南郡皇帝自称していると聞くと、2人はこれに投降し荘尤大司馬陳茂丞相任命された。 更始帝は、皇帝称した劉望政権を敵とみなし、大司徒劉賜派遣してこれを討伐させたが、荘尤らは劉賜撃退する。しかし同年10月続いて討伐に来た奮威大将軍劉信敗れ劉望荘尤陳茂はいずれ戦死した

※この「漢軍との戦い」の解説は、「荘尤」の解説の一部です。
「漢軍との戦い」を含む「荘尤」の記事については、「荘尤」の概要を参照ください。

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