漂流の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/25 03:41 UTC 版)
この漂流事件は当時の江戸でも話題となり、5年後の延宝3年(1675年)4月に幕府はこの無人島に調査船富国寿丸を派遣した。島谷市左衛門を船頭とした32人の調査団は、4月5日に下田を出帆し、八丈島を経由して4月29日に父島に到着した。調査団は5月1日から6月6日までの36日間にわたって父島、母島などで地図の作成や緯度の測定などを行い、父島に祠を建てた。 これら一連の作業は、小笠原諸島に対する日本の先占権を訴えるにあたって国際的に有効であり、後に小笠原諸島の領有権が日英米で争われた際、この時の幕府による調査が小笠原諸島が日本領である根拠として挙げられた。
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