滝川氏
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滝川氏(たきがわし、旧字体:瀧川氏)は、日本の氏族。家紋は丸に竪木瓜。近江国甲賀郡に興り、織田信長の重臣・滝川一益を輩出した。
一益系
忠征系
雄利系
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』第4輯、442頁。
- ^ 『藩翰譜 : 12巻 巻七』吉川半七、1896年、44丁表。
- ^ 加藤国光『尾張群書系図部集』続群書類従刊行会、1997年、393頁。
- ^ 鳥取県 編『鳥取藩史』第1巻 (世家・藩士列伝)、鳥取県立鳥取図書館、1969年、440-442頁。
- ^ 「瀧川系図」(東京大学史料編纂所所蔵)。
- ^ a b c “旧高旧領取調帳データベース”. 国立歴史民俗博物館. 2024年3月30日閲覧。
- ^ 『寛政重修諸家譜』第4輯、447-448頁。
- ^ 『名古屋叢書 続編 第17巻 士林泝洄 第1』名古屋市教育委員会、1966年、120-124頁。
- ^ 名古屋市編『名古屋市史 人物編 第1』川瀬書店、1934年、141-142頁。
- ^ “新修名古屋市史資料 公開資料一覧” (pdf). 名古屋市市政資料館 (2019年3月). 2024年3月30日閲覧。
- ^ 『寛政重修諸家譜』第3輯、425頁。
- ^ 『寛政重修諸家譜』第3輯、427頁。
- ^ 野沢日出夫「子孫訪問 江戸幕府最後の大目付瀧川播磨守の裔 瀧川具也氏」『姓氏と家紋』近藤出版社、第61号、1991年3月、38-39頁。
- 1 滝川氏とは
- 2 滝川氏の概要
- 3 雄利系(片野藩主・旗本)
- 4 参考文献
滝川氏
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一方の敗れた一益は6月27日の清洲会議に出席出来ず、織田家における一益の地位は急落した。翌天正11年(1583年)正月、一益は織田信孝、柴田勝家に与して羽柴秀吉と激突、秀吉方の大軍7万近くを相手に3月まで粘り、柴田勝家の南進後も織田信雄と蒲生氏郷の兵2万近くの兵を長島城に釘付けにしたが、勝家が賤ヶ岳の戦いで敗れ、4月23日に北ノ庄において自害、4月29日には信孝も岐阜城を落とされ自害してしまう。残された一益は長島城で籠城し続け意地を見せたが、7月に降伏。これにより一益は所領を全て没収され、出家し入庵と号した。 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いが始まると、今度は秀吉方として織田信雄の家臣・九鬼嘉隆と前田長定を調略し、信雄の長島城と徳川家康の清洲城の中間にある蟹江城を攻略、徳川・織田の主力を相手に半月以上籠城するが遂には敗れ、伊勢に逃れた。しかしこの功により秀吉から1万5,000石を与えられ大名に返り咲いた(蟹江城合戦)。同時に、一益は天徳寺宝衍、山上道及等と共に秀吉の東国外交を担っており、佐竹義重や梶原政景と書状を交わしている。その内容は秀吉の北条征伐を予告するものであり、彼らの活動は、その後の北条氏にとって不利に働いたと考えられる。天正14年(1586年)9月9日、滝川一益は病死した。
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