治水と先人達の苦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 15:42 UTC 版)
平安時代には既に水屋が建設されており、後に輪中が形成されて行き住民は洪水に対抗していった。地元に残る言葉に「四刻八刻十二刻」がある。これは大雨が降った際の木曽三川の洪水到達予測時間の事であり、揖斐川は四刻(8時間)、長良川は八刻(16時間)、木曽川は十二刻(24時間)で洪水が到達することを意味している。いかに流域住民が水害に対して敏感であったかが良く分かる。一方で網の目状に流れる木曽三川を利用しての水運は、金華山や大垣の他、烏江湊から陸路を経由しての琵琶湖水運、桑名津からの海運などで大坂などにも繋がっていた。
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