沙陀族
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沙陀族(さだぞく、さたぞく)は、8世紀から10世紀頃まで、華北、オルドスから山西近辺の地域で繁栄したテュルク系民族の開いた突厥を構成した一部族。突厥崩壊後、吐蕃につき後に唐に帰服。雲州など現在の山西省北部に定着して、軍閥化して次第に漢化した。
注釈
- ^ 加藤徹は、趙匡胤の父の趙弘殷は突厥沙陀部の国家である後唐の近衛軍の将官であり、世襲軍人だった趙氏一族に突厥沙陀部の血が混ざっていた可能性は高いと述べている[1]。岡田英弘は、趙匡胤は涿郡(河北省保定市、北京市の南)の人であるが、涿郡は唐はソグド人やテュルク系人や契丹人が多く住む外国人住地であり、例えば安禄山は営州の人で、母はテュルク系人であり、范陽郡(漢・隋の涿郡)を根拠に唐に反乱を起こしたが、趙匡胤の父の趙弘殷は後唐の荘宗の親衛隊出身であり、後周の世宗の親衛隊長になったが、趙匡胤は後周の世宗の親衛隊長から恭帝に代わり宋の皇帝となったように、テュルク系人の後唐の親衛隊或いは出自に問題の後周の親衛隊長からして、趙氏は北族の出身であろうと述べている[2]。
出典
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