欠史八代
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欠史八代(けっしはちだい、旧字体:缺史󠄁八代、闕史八代)は、第2代綏靖天皇 - 第9代開化天皇までの8代の天皇を指す、歴史学の用語である。『古事記』や『日本書紀』にその系譜が記されている初期天皇の系譜は、その多くが後世の創作によるものと見られ、欠史八代の天皇が実在した可能性は学術的にはほぼないとされる[1][2]。
注釈
- ^ 複数の異名や訓み方があるが、表記は直木 2005 掲載の表に依った
- ^ 后妃のまとめは直木 1964, p. 219掲載の表に依った。括弧書きしてあるものは「氏姓であることの明確でないもの、または神を示す。」
- ^ 直木 1964, p. 219 掲載の表に(意富夜麻登)が2列並べられていることからそれに従っている。
- ^ ただし、『帝紀』を系譜、『旧辞』を物語とする通説は現在では見直されつつある。遠藤慶太によれば『上宮聖徳法王帝説』など古史料の中には『帝紀』を引く形で具体的な歴史的事件の記録を伝えているものがあり、『帝紀』の内容が系譜情報のみに留まるものではないことは明らかであるという[6]。
- ^ 直木孝次郎によれば、公刊された限りでは肥後和男「大和闕史時代の一考察」(1935)が欠史八代の実在の問題について戦前に論じた数少ないものの1つである。ただし、直木孝次郎は欠史八代の研究史について網羅的な調査を行ったわけではないことを断っている[7]。
- ^ 義江は「おやのこ(於夜乃子)」「うみのこ(宇美乃古)」という用語自体は『万葉集』巻18-4094番と巻20-4465番の大伴家持の歌より得ている[19]。
- ^ 「娶」字は通常、「メトリテ」「メトシテ」と訓むが、ここでは義江明子の訓みに従って「ミアイテ」としている。義江によれば「メトル」即ち「
女 ()を取る」という読みは漢語の語義に従った訓ではあるが、古代日本における一般的な婚姻形態は妻問婚であり、男が女を取るという意味合いの訓みは当時の実態にそぐわず行われなかったであろうという。その上で本居宣長が「娶」字に対して「米志弖(メシテ)」、「伊礼弖(イレテ)」、「美阿比坐弖(ミアヒマシテ)」という訓みの候補を挙げていることを参考として、「ミアヒ」という訓みが当時の言葉として適切であるという[20]。これは、人類学・家族史研究の潮流を受けて、古代日本社会が東南アジア・環太平洋地域で広く見られる双系的(子供が父系あるいは母系ではなく、父母双方から社会的地位を受け継ぐ可能性のある)社会であったという理解に基づくものである[21]。7世紀頃までの日本社会が、父系または母系ではなく、双系的社会であったという理解は概ね定説となっている[22]。家制度が未発達かつ、男女いずれか(多くの場合は男)が相手側の家へ通うことで婚姻関係とみなされる社会にあって、「女を取る」ことは原理的に成立し得ないと義江は指摘する。当時の婚姻とは単純な男女関係の事実によって裏打ちされており、奈良時代の法律注釈書『令集解』の戸令結婚条には「同里」内で、「男女が三か月以上行き来しなかったならば、離婚とみなす」とされている[23]。また義江は傍証として、国生み神話において、(イザナギとイザナミが)御合て(ミアヒテ)生む子、淡路のホノサワケ島、次ぎに伊予のフタナ島を生む、という表現が用いられていることを挙げる[24]。これらのことから、古代の日本において男女は「メトリテ」子を成すのではなく「ミアヒテ」子を成すのであり、訓もその観念に準じたものと考えられる。 - ^ 賀茂御祖皇大神神宮禰宜河合神職鴨県主系図
- ^ ただし、稲荷山鉄剣銘を始めとした古代の地位継承次第系譜については、義江が古代において父系出自集団の存在は想定し難いとするのに対し、溝口睦子は鉄剣銘が現実の父子関係を意味するものではない点に同意しつつも、あくまで「父から息子へ」という父系観念に基づいて作成された系譜であるとする。篠川賢は溝口の見解を妥当であるとする[29]。溝口は古代日本における理念としての父系観念の存在と、親族関係や氏の実際のあり方は必ずしも一致するものではなく、別個に考察することが必要ではないかという[30]。また、平林章仁は稲荷山鉄剣銘について「『其児』で結ばれていることは職位あるいは首長位継承系譜ではなく、血縁系譜を意図していたことを物語る」とする[31]。
- ^ 具体的には『古事記』において綏靖、安寧、懿徳天皇の后妃の氏姓は師木(シキ)県主であり、孝霊天皇の后妃は十市県主である。『日本書紀』本文では綏靖、安寧、懿徳天皇の后妃は事代主神、息石耳命から出ているが、引用されている「一書」の異伝においては磯城県主、春日県主などより出ている。また『日本書紀』の本文および異伝では他にも、孝昭、孝安、孝霊天皇の后妃も磯城、十市、春日県主から出ていることが伝えられている[39]。
- ^ ただし、井上は後に自説を撤回している[11]
- ^ 例えば、天智天皇の息子施基皇子(志貴県)、娘山辺皇女(山辺県)、天武天皇の息子高市皇子(高市県)、娘十市皇女(十市県)、息子磯城皇子(志貴県)など[42]
- ^ 笠井の見解に対し、笹川尚紀は6世紀の用明天皇の息子、当麻皇子とその妻舎人皇女が母系で同一の祖先、堅塩媛に行着く(彼女は当麻皇子の祖母かつ、舎人皇女の母に当たる)ことから、笠井倭人が指摘する同母系親族婚は天武朝期に始められたものではなく、少なくとも推古朝(6世紀半ば)には行われていたとする。このことから、欠史八代の同母系親族婚系譜が創り出されたのは天武朝期とは断言できず、その造作が行われたのは6世紀頃まで遡り得るとする見解を出している[46]。本文では木下礼仁のまとめ[3]を参考に、天武朝期の成立とする笠井倭人の見解を基本とした。
- ^ 古代日本の系譜が直系継承、あるいはそのような形に見えるようになっていることについて、しばしば参考にされるのが川田順造による西アフリカのモシ族を中心としたフィールドワーク調査報告である。川田によれば西アフリカの無文字社会の口承伝承に語られる首長の系譜は、比較的新しい時代については傍系継承が多いのに対し、「より古い時代の、名と継承順位だけが知られているに過ぎないような首長は、一まとめに、直系継承とされている例が多いのである。」という[53]。川田はさらにこうした続柄が不明な首長について「父から子への継承とした方が、王朝歴史が長く、従って王朝起源も古くなるという点も、見過ごされてはならないだろう。」と述べる[53]。遠藤慶太は若井敏明による欠史八代系譜情報の形成過程推定と、川田による西アフリカ調査を引き、天皇(大王)自体の伝承とその系譜の伝承の形成過程に時間差が存在することを指摘する[14]。
- ^ 直木孝次郎は国造姓氏族のうち神武裔とされる氏族の大半が神八井耳命を祖とすることについて、「神八井耳命裔の氏族には国造姓五氏の他に、火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連・伊勢船木直・尾張丹羽臣・島田臣と地方豪族がはなはだ多いことと併せて考える必要がある。」としている[62]。
- ^ 『日本書紀』の持統5年(681年)条には18氏が墓記を進上したことが記載されているが、直木孝次郎によればこのうち11氏が臣姓氏族である。そしてこの11氏の系譜全てが『古事記』に記載があり、9氏が欠史八代の天皇の後裔である[63]。
- ^ 『古事記』では所知初國御眞木天皇(ハツクニシラスミマキノスメラミコト)、『日本書紀』では御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)。
- ^ 関根淳は「日本書紀『欠史八代』に示されるように、系譜は〈歴史〉であり、史書の原型は系譜である。」と指摘する[70]。
- ^ 関根淳は「天皇とは人々に時間、即ち『歴史』を与える存在」であったと描写する[71]。
出典
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- ^ 大津 2017, 125-132
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- ^ 溝口 2009, p. 45
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- ^ 義江 2011, pp. 9-10
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- ^ a b 義江 2011, pp. 13-14
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- ^ 平林 2016, p. 10
- ^ a b 直木 1990, p. 226
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- ^ 関根 2017, p. 21
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- ^ 笠井 1957, p. 40
- ^ 笠井 1957, p. 41. 笹川尚紀「『帝紀』・『旧辞』成立論序説」『史林』(史学研究会、2000年5月)に従い一部改めた.
- ^ a b c 若井 2010, pp. 62-66
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- ^ 遠藤 2012
- ^ 関根 2020
- ^ 直木 2005, pp. 25-29
- ^ 義江 2011, pp. 183-229
欠史八代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 14:37 UTC 版)
綏靖天皇以下の8代の天皇(欠史八代)の事跡は記紀にほとんど伝わらない。
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欠史八代
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九州王朝説の古田武彦は欠史八代は神武天皇以来の近畿分王朝(九州王朝の分家)として実在した、と主張している。
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