樺太国境交渉とは? わかりやすく解説

樺太国境交渉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 01:42 UTC 版)

日露和親条約」の記事における「樺太国境交渉」の解説

日本全権川路聖謨。『幕末・明治大正 回顧八十年史』より。 ロシア全権エフィミー(エフィム)・プチャーチン 条約交渉開始時点では樺太国境画定する予定だったが、両国の主張対立したため国境画定できなかった。 長崎での交渉の中でロシア側は、樺太最南部のアニワ湾周辺日本の領土とし、それ以外ロシア領とすることを提案した日本側はそれに対して北緯50度の線で日露国境とすることを主張した交渉下田に移る直前川路老中にあてた書簡の中で次のように説明している。 日本会所ができているのはアニワ湾周辺だけで、それより奥地へは探険家入った程度である。長崎では北緯50度で分けるとの案を出したが、どこで分けるかの定見は無い。不毛の樺太棄てて一向に差し障り無い。 — 『開国 日露国境交渉下田交渉が始まると、嘉永7年11月4日1854年12月23日)の安政東海地震津波により大破したロシア艦「ディアナ」が沈没してしまったため、交渉一時停止した。交渉再開し安政2年12月14日1855年1月31日)、樺太国境設けず附録で、日本人並に蝦夷アイヌ居住地日本領とすることで一旦は合意した。このとき、川路蝦夷アイヌ、なにアイヌ明確に分かれているので混乱恐れはないと説明した2月2日交渉で、ロシア側は附録部分蝦夷アイヌ蝦夷島アイヌとすることを提案した翌日日本側は、蝦夷島同種のアイヌとすることを提案したが、ロシア側の反対強く決まらなかった。4日ロシア側から附録無しにして、本文是迄通りと書けば十分ではないか提案があり、5日にはロシア提案通り決定したその後樺太国問題は、慶応3年1867年)の日露間樺太島仮規則経て明治維新後の1875年明治8年5月7日樺太・千島交換条約によって一応の決着を見ることになる。

※この「樺太国境交渉」の解説は、「日露和親条約」の解説の一部です。
「樺太国境交渉」を含む「日露和親条約」の記事については、「日露和親条約」の概要を参照ください。

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