樺太国境交渉
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日本側全権の川路聖謨。『幕末・明治・大正 回顧八十年史』より。 ロシア側全権エフィミー(エフィム)・プチャーチン 条約交渉開始時点では樺太の国境を画定する予定だったが、両国の主張が対立したため国境を画定できなかった。 長崎での交渉の中でロシア側は、樺太最南部のアニワ湾周辺を日本の領土とし、それ以外をロシア領とすることを提案した。日本側はそれに対して、北緯50度の線で日露の国境とすることを主張した。交渉が下田に移る直前、川路は老中にあてた書簡の中で次のように説明している。 日本の会所ができているのはアニワ湾周辺だけで、それより奥地へは探険家が入った程度である。長崎では北緯50度で分けるとの案を出したが、どこで分けるかの定見は無い。不毛の樺太を棄てても一向に差し障り無い。 — 『開国 日露国境交渉』 下田で交渉が始まると、嘉永7年11月4日(1854年12月23日)の安政東海地震津波により大破したロシア艦「ディアナ」が沈没してしまったため、交渉は一時停止した。交渉が再開し、安政2年12月14日(1855年1月31日)、樺太に国境を設けず、附録で、日本人並に蝦夷アイヌ居住地は日本領とすることで一旦は合意した。このとき、川路は蝦夷アイヌ、なにアイヌと明確に分かれているので混乱の恐れはないと説明した。2月2日の交渉で、ロシア側は附録の部分の蝦夷アイヌを蝦夷島アイヌとすることを提案した。翌日、日本側は、蝦夷島同種のアイヌとすることを提案したが、ロシア側の反対が強く決まらなかった。4日、ロシア側から、附録は無しにして、本文に是迄通りと書けば十分ではないかと提案があり、5日にはロシア側提案通りに決定した。 その後、樺太国境問題は、慶応3年(1867年)の日露間樺太島仮規則を経て、明治維新後の1875年(明治8年)5月7日の樺太・千島交換条約によって一応の決着を見ることになる。
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