果樹の栽培歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 04:24 UTC 版)
1972年、長崎県南島原市にある農研機構(旧農林水産省果樹試験場)で、「清見(きよみ)」タンゴールと中野3号「ポンカン」を交配して誕生した。果形は果梗部にデコが現われやすく不揃いになりやすく、果皮は見た目が粗く成熟するとややくすんでしなびるなど、外見上の弱点が目立ち育成試験場では選抜対象とはならず品種登録はされなかった。 その後、試験栽培中の苗木が口之津から運ばれ、熊本県宇土郡不知火町(現・宇城市)に渡り、品種名を「不知火」として栽培の取り組みが始まった。古くから甘夏の産地として知られていた不知火町および周辺地域では1975年頃から甘夏に代わる柑橘を模索していたという事情も重なって、不知火海(八代海)沿岸の宇土半島、天草諸島、葦北地方などを中心に広がり、その後、鹿児島県、愛媛県(八幡浜市、伊方町、松山市など)や広島県、佐賀県、和歌山県、静岡県等の全国へと普及していった。 なお、同じものが韓国の済州島へ渡って特産品となり、漢拏峰(ハルラボン)という名前で生産されている。またアメリカのカリフォルニア州では、Sumo Citrus(スモウシトラス)やSumo Mandarin(スモウマンダリン)の名前で栽培されている。
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