松平宗昌とは? わかりやすく解説

松平宗昌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/17 06:36 UTC 版)

 
松平宗昌
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 延宝3年6月23日1675年8月14日
死没 享保9年4月27日1724年5月19日
改名 仙鉄/千鉄(幼名)→昌興→昌平→宗昌
戒名 豊仙院円誉照元安住
墓所 東京都港区虎ノ門天徳寺
東京都品川区南品川の海晏寺に改葬
官位 従四位下侍従・内匠頭
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗
越前松岡藩主→越前福井藩
氏族 越前松平家(松岡家→福井家)
父母 父:松平昌勝、母:中根氏娘・葉津
養父:松平吉邦
兄弟 綱昌宗昌、昌純、吉邦、昌賁、
諏訪忠虎正室、大田原清信正室、清寿院
正室:小笠原忠雄養女・菊姫
側室:杉山氏
勝姫
養子:宗矩
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松平 宗昌(まつだいら むねまさ)は、江戸時代前期から中期の大名越前国松岡藩2代藩主、のち越前福井藩9代藩主[注釈 1]官位従四位下侍従・内匠頭。

生涯

延宝3年(1675年)6月23日、松岡藩初代藩主・松平昌勝の三男として松岡にて誕生した。母は中根氏(葉津)。幼名は仙鉄。

元禄6年(1693年)、最初は昌興(まさおき)と名乗る。父の死去により越前松岡藩を継ぐ。このときの名乗りは昌平(まさひら)である。享保6年(1721年)に本家の藩主となっていた弟・松平吉邦が嗣子無くして死去したため、12月11日にその跡を継ぎ、18日に侍従に任じられた。このとき、松岡藩は本家に併合されて廃藩、福井藩は合計30万石となった。8代将軍・徳川吉宗より偏諱を拝領して宗昌(むねまさ)と改名する。

40代半ばを過ぎての本家相続であり、当時としては既に跡継ぎを望むには高齢で、かつ後継者がなかった。そのため、藩主就任と同時に幕府の指示により、白河新田藩主松平知清の次男宗矩を養嗣子とする。福井藩に相次いだ当主後継を巡る御家騒動の再発を防ぐための、幕府の事前措置と思われる。宗矩は先代藩主・吉邦の一人娘を正室に迎える。享保9年(1724年)4月27日、宗昌は江戸で死去し、跡を宗矩が継いだ。享年50。墓所は東京都港区虎ノ門(西ノ窪)の天徳寺。のち東京都品川区南品川の海晏寺に改葬された。宗昌の死により松平忠昌以来の男系の血筋は断絶した。

系譜

脚注

注釈

  1. ^ 一般には福井藩第3代と数える松平忠昌以降を別系統(別藩)と捉える学説・主張もあり、それに従えば第7代となる。

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