東ドイツ晩年の報道
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「アクトゥエレ・カメラ」の記事における「東ドイツ晩年の報道」の解説
ベルリンの壁崩壊の約1か月前に当たる1989年10月から、番組は党方針への忠誠をゆるめ、東ドイツを変革しようとしている出来事を公平に報じ始めた。10月16日、大規模な反政府運動によるライプツィヒ月曜デモの写真を初めて報道。この放送の2日後にはSED中央委員会総会を特集し、エーリッヒ・ホーネッカー書記長ら党指導部と数人の中央委員会メンバーの退任を伝えた。 10月30日、DD2で『アクトゥエレ・カメラ』はAK Zwoと改称。3か月後の1990年3月12日にはAK Zwoのテーマ曲やグラフィクスがDFF1(旧DDR1)での放送でも使われ始める。以降、午後0時50分の放送はAK am Mittag(『昼のアクトゥエレ・カメラ』)として、午後7時半の主要版はAK am Abend"(『夜の~』)、サマリーは一般名称のAK-Nachrichten(単なる『アクトゥエレ・カメラ ニュース』)またはAK-Kurznachrichten(『アクトゥエレ・カメラ 短信』)と呼んだ。 1990年の放送では、全国統一直前のイベント(10月2〜3日)とその日のハイライトが紹介された。
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