本田宗一郎とは?

辞典・百科事典の検索サービス - Weblio辞書

初めての方へ

参加元一覧


用語解説|プロフィール|動画|本・雑誌|文献|商品|全文検索
Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 実業家 > 経営者 > 日本の実業家 > 本田宗一郎の意味・解説 

三省堂 大辞林

三省堂三省堂

ほんだ-そういちろう ―そういちらう 【本田宗一郎】



ウィキペディア

ウィキペディアウィキペディア

本田宗一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/20 13:04 UTC 版)

ほんだ そういちろう
本田 宗一郎
生誕 1906年11月17日
日本の旗 日本 静岡県磐田郡光明村
死没 1991年8月5日(満84歳没)
日本の旗 日本 東京都文京区
職業 実業家技術者
配偶者 本田さち
子供 本田博俊 (長男)
本田勝久 (次男)
テンプレートを表示

本田 宗一郎(ほんだ そういちろう、1906年11月17日 - 1991年8月5日)は、日本実業家技術者本田技研工業(通称:「ホンダ」)の創業者。


目次

略年譜

  • 1906年(明治39年) - 11月17日、静岡県磐田郡光明村(現:浜松市天竜区)で鍛冶屋をしていた本田儀平と妻みかの長男として生まれる。
  • 1913年(大正2年) - 光明村立山東尋常小学校(現:浜松市立光明小学校)に入学。在校中に自動車を初めて見る、浜松町和地山練兵場でアート・スミスの曲芸飛行を見学に行き、飛行機を初めて見るなどの経験をする。
  • 1919年(大正8年) - 二俣町立二俣尋常高等小学校(現:浜松市立二俣小学校)入学。
  • 1922年(大正11年) - 高等小学校卒業、東京市本郷区湯島(現:東京都文京区湯島)の自動車修理工場「アート商会」(現:アート金属工業)に入社(当時の表現で「丁稚奉公」)。
  • 1928年(昭和3年) - アート商会に6年勤務後、のれん分けの形で浜松市に支店を設立して独立。宗一郎ただ1人だけが社長の榊原郁三から、のれん分けを許された。
  • 1935年(昭和10年) - 小学校教員の磯部さちと結婚。
  • 1936年(昭和11年) - 第1回全国自動車競走大会(多摩川スピードウェイ)に弟の弁二郎[1]とともに出場するが事故により負傷、リタイアを喫する。
  • 1937年(昭和12年) - 自動車修理工場事業を順調に拡大、「東海精機重工業株式会社」(現:東海精機株式会社)の社長に就任。しかし学問的な壁に突き当たり、浜松高等工業学校(現:静岡大学工学部)機械科の聴講生となり、3年間金属工学の研究に費やす。
  • 1939年(昭和14年) - アート商会浜松支店[2]を従業員の川島末男に譲渡し、東海精機重工業の経営に専念する。
  • 1942年(昭和17年) - 長男・博俊(元「無限」代表取締役)誕生。トヨタが東海精機重工業に出資、自らは専務に退く。
  • 1945年(昭和20年) - 三河地震により東海精機重工業浜松工場が倒壊。所有していた東海精機重工業の全株を豊田自動織機に売却して退社、「人間休業」と称して1年間の休養に入る。
  • 1946年(昭和21年) - 10月、浜松市に本田技術研究所 (旧)設立。39歳の宗一郎は所長に就任。
  • 1948年(昭和23年) - 次男・勝久誕生。本田技研工業株式会社を浜松に設立。同社代表取締役就任。資本金100万、従業員20人でスタート。二輪車の研究を始める。
  • 1949年(昭和24年) - 後にホンダの副社長となる藤沢武夫と出会い、共にホンダを世界的な大企業に育て上げる。ホンダの社史については本田技研工業#社史の項目を参照
  • 1961年(昭和36年) - 藤沢とともに「作行会」という財団法人を設立。若手研究者や学生に対して匿名で奨学金を交付[3]した。
  • 1973年(昭和48年) - 中華人民共和国を訪れた帰国直後の会見で、本田技研工業社長を退き、取締役最高顧問に就任と発表。研究所所長は続けた。
  • 1983年(昭和58年) - 取締役も退き、終身最高顧問となる。
  • 1989年 - 日本人として初めてアメリカ合衆国自動車殿堂入りを果たす。
  • 1991年(平成3年) - 8月5日、東京・順天堂大学医学部附属順天堂医院で肝不全のため死去。84歳没。同日、正三位・勲一等旭日大綬章贈位
  • 2010年(平成22年) - 4月1日、出生地である静岡県浜松市天竜区に本田宗一郎ものづくり伝承館がオープン。建物は国の登録有形文化財(建造物)に指定されている旧二俣町役場を改築したものである。

エピソード

  • 小学生の頃、通信簿を親に見せ判子をもらう必要があった。当然、見せられる成績ではないので、自作した偽造判子で乗り切ることにした。それはよい手だと、次の学期には級友達にも求められ作ったが、全て鏡文字となっていたため簡単に発覚した。しかし、『本田』の文字が左右対称で、鏡文字でも同じ文字になる当人だけは偽造が発覚しなかった。
  • 終戦直後は何も事業をせず、土地や株を売却した資金で合成酒を作ったり、製塩機を作って海水からを作ってと交換したりして「遊んで」いたという。しかしこの時期に、苦労して買い出しをしていた妻の自転車に「エンジンをつけたら買い出しが楽になる」と思いつき、オートバイ研究が始まる。
  • 宗一郎は会社の判子を藤沢に預け、会社の経営は全て藤沢に任せており、自身は社印も実印も見たことがなかったという[4]。 宗一郎自身は技術部門に集中し、後に「藤沢がいなかったら会社はとっくのとうに潰れていた」と述べており、藤沢も「本田がいなければ、ここまで会社は大きくならなかった」と述べている[要出典]。互いに「下落合」(宗一郎の自宅のある地)、「六本木」(藤沢の自宅のある地)とざっくばらんに呼び合っていた。また両者は「会社は個人の持ち物ではない」という考えをもっており、宗一郎と藤沢は身内を入社させなかった[5]
  • 宗一郎は経営難に陥った時、藤沢武夫の助言でマン島TTレースF1などの世界のビッグレースに参戦することを宣言し、従業員の士気高揚を図ることで経営を立て直した。出場宣言は藤沢によって書かれた[6]
  • 南青山の本社ビルを新築する際、宗一郎は「万が一地震が起こったときに、割れたガラス歩道を歩く人に降りかからないようにしなさい」と指示し、全フロアにバルコニーがつけられたという。また、藤沢武夫も全く同じ指摘をしていたという。
  • 皇居での勲一等瑞宝章親授式へ出席の際、「技術者の正装とは真っ白なツナギ(作業着)だ」と言い、その服装で出席しようとした。「天皇陛下の御前では失礼に当たります。これまで正装(燕尾服)以外で親授式に臨んだ受章者は誰1人おりません。」という説得にも耳を貸そうとせず「いなくたっていいじゃないか。俺は白の作業着を着たいんだ」と強硬に言い張ったが、さすがに周囲に止められ最終的には社員が持っていた燕尾服を着用して出席した。
  • 従業員からは親しみをこめて「オヤジ」と呼ばれていたが、一方で宗一郎と共に仕事をした従業員は共通して「オヤジさんは怖かった」とも述べている。作業中に中途半端な仕事をしたときなどは怒声と同時に容赦なく工具で頭を殴ったり、実験室で算出されたデータを滔滔と読み上げる社員に業を煮やした宗一郎は「実際に走行させたデータを持って来い」と激怒して灰皿で殴るなどしていた。
  • 無類のの友釣り好きで、年に1度は多数の客を自宅に招き鮎を放った小川で「鮎釣りパーティー」を行っていた。
  • 大の別荘嫌いで「1年の内に1週間から10日しか住まない所に金を掛けるなんて実にバカらしい」と言い、生涯所有はしなかった。

[ヘルプ]
  1. ^ 後にホンダの系列会社「本田金属技術」を設立する。
  2. ^ 同店は現在でも自動車修理工場として存続している。
  3. ^ 現在の「本田財団」が行っている事業「YES奨励賞」の原点。
  4. ^ 本田宗一郎 『やりたいことをやれ』 (2005年・PHP研究所 258ページ) 
  5. ^ ただし、本田の弟・弁二郎の「本田金属技術」や息子・博俊の「無限」など、親族経営の関連会社は存在する。
  6. ^ 藤沢武夫 『経営に終わりはない』(1998年・文春文庫 43ページ) 


「本田宗一郎」の続きの解説一覧




固有名詞の分類



本田宗一郎に関連した本


本田宗一郎に関係した商品


本田宗一郎のページへのリンク
「本田宗一郎」の関連用語
本田宗一郎のお隣キーワード
モバイル
モバイル版のWeblioは、下記のURLからアクセスしてください。
http://m.weblio.jp/
» モバイルで「本田宗一郎」を見る
_ _   


本田宗一郎のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
三省堂三省堂
Copyright (C) 2001-2012 Sanseido Co.,Ltd. All rights reserved.
株式会社 三省堂三省堂 Web Dictionary
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの本田宗一郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2012 Weblio RSS