暴力と衝突の時代(1955年-1982年)
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「アルゼンチンの歴史」の記事における「暴力と衝突の時代(1955年-1982年)」の解説
ペロンの後継大統領となったものの短期間で失脚したエドゥアルド・ロナルディ。 実質ペロン後のアルゼンチンを率いたペドロ・エウヘニオ・アランブル。 アルゼンチン、およびラテンアメリカを代表する革命家 エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ。ペロンがゲバラを賞賛したことでペロン主義は反政府的・左派的・革命的なものへと変質していく。 1955年のクーデターによりフアン・ペロンが追放された後、エドゥアルド・ロナルディ将軍はペロン主義との和解を訴えたが、この路線は反ペロン派の反対にあって実現せず、同年就任したペドロ・エウヘニオ・アランブル大統領により、ペロン主義と軍部、寡頭支配層の間の亀裂は決定的なものとなった。以降アルゼンチン史は数十年に渡り、この巨大な亀裂によって規定され、暴力と混乱が社会の至る所に表出した。 また、軍部、寡頭支配層による弾圧が進むに連れ、ペロニスタ内部での変質が生じ、ペロン時代にペロンが農地改革を唱えたことはなかったのにもかかわらず、1962年にはその綱領に農地改革が盛り込まれるなど、次第にペロニスタ内部での左傾化と中産階級化が進んだ。このことは、ペロンが1967年10月にアルゼンチン人の革命家チェ・ゲバラがボリビアのイゲラで戦死した際に、ゲバラを「ラテンアメリカ革命の生んだ最も優れた英雄」と呼んだことに象徴される。こうして左傾化したペロニスタは次第に闘争戦術を激化させ、工場占拠や、暴力革命を目指すゲリラ組織設立にまでエスカレートし、軍部とペロニスタ双方のテロにより多くの犠牲者が出た。 このように、ペロンの残した社会、経済制度の不備もあって、南米最富裕国だったアルゼンチンは、1960年代頃から徐々にアジアの新興国だった日本や大韓民国、台湾などのNIES諸国、そしてブラジル、チリといったラテンアメリカ内での競争相手に追い抜かれることになる。
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