日本海軍による作戦実施
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/29 17:57 UTC 版)
「ハゴイ飛行場」の記事における「日本海軍による作戦実施」の解説
太平洋戦争開戦後、しばらくは軍用機の配備はなかったが、1944年(昭和19年)2月19日、トラック島空襲に伴って第一航空艦隊に属する七六一空(龍部隊)の九六陸攻と一式陸攻40機がハゴイ飛行場に進出した。 2月22日の米機動部隊による空襲の際、七六一空は米機動部隊に対して雷撃を行ったが、戦果はなく22機が未帰還となり、さらに一式陸攻7機と九六陸攻7機が地上で撃破された。翌2月23日にも米軍による飛行場に対する攻撃は続けられ、基地員約30名が戦死し、飛行場施設は破壊された。この攻撃による米軍機の損害は6機だったが、日本軍の航空戦力は潰滅的な打撃を受けることとなった。 その後、七六一空は内地で編成し直し、再びハゴイ飛行場に進出して哨戒任務に就いたが、3月30日、31日のパラオ大空襲に伴って、5月頃に本隊はパラオのペリリュー島に移動し、ハゴイ飛行場には一部を残すのみとなった。 6月11日から始まった米軍のマリアナ諸島侵攻の際には、新たに派遣された零戦18機(三〇一空10機、三四三空8機)が迎撃に飛び立つもほとんどが未帰還となった。七六一空も、6月13日午前3時に5機が敵艦隊攻撃のために飛び立ったが、戦果はなく1機が硫黄島に不時着、1機がテニアンの東海岸で不時着大破した他、3機が行方不明になるという結果だった。 この作戦がハゴイ飛行場における日本軍最後の作戦となった。
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