日本における死刑囚の一覧_(1970-1999)とは? わかりやすく解説

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日本における死刑囚の一覧 (1970-1999)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/29 06:56 UTC 版)

日本における死刑囚の一覧 (1970-1999) (にほんにおけるしけいしゅうのいちらん)は、1970年(昭和45年)から1999年平成11年)の日本で、刑事裁判によって死刑判決を言い渡され、確定した死刑囚死刑確定者)の一覧記事である。


  1. ^ 平沢貞通は1955年5月7日付で死刑が確定したが、死刑を執行されぬまま、1987年5月10日(死刑確定から32年後)に肺炎のため、拘置先の八王子医療刑務所で死亡した(95歳没)[13]
  2. ^ 当時の名古屋高裁刑事第1部の合議体は、裁判長の上田孝造と、斎藤寿・藤本忠雄の両陪席裁判官で構成されていた[22]
  3. ^ 現:岩手県一関市
  4. ^ 名護市呉我地原とする報道もある[73][74]。現場は広いパイン畑の真ん中にあった木造住宅で[73]、負傷した義父は畑の管理人だった[74]
  5. ^ 沖縄の日本復帰後、那覇地裁で最初に言い渡された死刑判決は、1972年10月31日に刑事第2部(大山栄太郎裁判長)で宣告された判決である[81][82]。同事件の被告人である那覇市在住の男(事件当時31歳)は1971年6月21日、借金返済を免れるため、結婚を前提に交際していたコザ市(現:沖縄市)の女性(当時29歳)をナイフで滅多刺しにして殺害したとして[81]沖縄の刑法による死刑を言い渡された[82]。しかし、控訴審(福岡高裁那覇支部)では1977年2月14日に原判決を破棄され、沖縄の刑法による無期懲役とする判決を言い渡され[83]、確定している[84]。それ以前(アメリカ統治時代)には計5人が死刑を言い渡されており、うち2人は琉球上訴裁判所で死刑が確定したが、いずれも弁務官の恩赦で無期懲役に減刑されており、死刑執行まで至った者は1人もいない[81]
  6. ^ a b c d e f 福岡拘置所はかつて、福岡刑務所の下部機関[89](福岡刑務所福岡拘置支所)だった[90]が、1996年5月11日に福岡拘置支所から昇格し、独立機関の福岡拘置所になった[89]。同時に、それまでの小倉拘置所は福岡拘置所の下部機関(小倉拘置支所)へ降格した[90]
  7. ^ 大分県別府市生まれだが、6歳のころ(1951年夏ごろ)に父親からの虐待に耐えかねて母とともに家を出、親戚や担任教師の家(佐賀市熊本県天草郡など)に預けられ、佐賀市内の小中学校を卒業した[93]
  8. ^ 脅迫1回、横領・傷害等(2回)、強盗・同未遂等(1回)の前科あり[70]
  9. ^ 1928年(昭和3年)12月3日生まれ[93]
  10. ^ 1941年(昭和16年)5月9日生まれ[93]
  11. ^ 2件目の殺人の直後(6月18日未明まで)、小倉北区中津口一丁目のホテルに潜伏していたところ、ホテル従業員が警察に通報したため、小倉北警察署福岡県警)などの警察官たちに取り囲まれ、説得された[96]。このため逮捕を免れ、あるいは遅延させる目的で警察官を射殺しようとし、小倉北署の警察官2人に相次いで拳銃を発砲したが、防爆盾に阻まれたり、標的を外したりしていずれも未遂に終わった[97]
  12. ^ 一時は家出少年を自宅に同居させるなどしていたが、同性愛行為の現場を妻に発見されて性癖が露見したり、妻が1962年ごろに胎児を逆子のため死産したことなどから、妻はやがてKとの性交渉を忌避するようになり、1. 事件後の1967年ごろからは関係が途絶していた[105]
  13. ^ Kの失恋が遠因になった事件ではあったが、何ら関係ない通行中の女性から財布を奪おうとし、抵抗されたことから胸などを所携の折込小刀で突き刺して死亡させた事件である[159]
  14. ^ 1953年7月14日に長崎地裁で無期懲役の判決を受け、同年10月19日には福岡高裁で控訴棄却の判決を受けた[160]。1954年1月27日付で、最高裁第二小法廷から上告棄却決定が出ている[161]
  15. ^ 現場には熊本地方法務局高森出張所事務室(義兄の職場)と、廊下伝いに棟続きになっていた義兄宅があった[162]
  16. ^ Yは同年春に須賀川市立第二中学校を卒業し[183]、卒業後には隣接する鏡石町の農機具会社へ就職することが決まっていた[184]
  17. ^ 殺害方法はうつ伏せに倒して背中に足をかけ、強く押さえつけながら手で首を絞めるというもので、死因は肝臓・膵臓の破裂である[186]
  18. ^ 事件当時は主人夫婦が老人クラブの旅行で出かけていたため、長男一家が父の家で夕食を摂っていた[181]。長男は自身の長男(当時2歳)とともに、父親の家(民宿の離れ)で泊まった一方、民宿の住宅の寝室(建物2階)でAとBが寝ていた[189]
  19. ^ 共犯の男は殺人・放火・詐欺のほか、Kと共謀して強盗殺人・死体遺棄にも関与したとされており[200]、起訴状ではこの男が犯行を計画してKを唆したとされていた[194]。しかし福島地裁白河支部は、それらの罪状については証拠不十分で無罪とした[194]
  20. ^ a b c d e f g h i j 札幌高裁仙台高裁の管内(前者は北海道全域・後者は東北6県)で死刑が確定した死刑囚はそれぞれ札幌拘置支所仙台拘置支所に収監されるが、死刑執行設備(刑場)はそれぞれ拘置支所に隣接する札幌刑務所宮城刑務所に位置するため、死刑執行はそれぞれ刑務所で行われる[234]
  21. ^ 約37万円との報道もある[205]
  22. ^ a b 福田 (2007) では12月11日とされている[170]
  23. ^ 1977年9月、玖珠郡九重町の宿泊先から49万円を盗んで逃げ、熊本・長崎両県下を放浪、盗みや賽銭泥棒を繰り返しながら一人暮らしの家を物色していた、とする報道もある[241]
  24. ^ ただし福島によれば、弁護人が長崎地裁に「再審請求書を送付した」との電報を打った日付は同月13日で、翌日(14日)にはOが弁護人宛の礼状を送っている[244]
  25. ^ 松前町北黒田[250]
  26. ^ a b c 刑法第45条確定裁判を経ていない二個以上の罪を併合罪とする。ある罪について禁錮以上の刑に処する確定裁判があったときは、その罪とその裁判が確定する前に犯した罪とに限り、併合罪とする。
  27. ^ 約370平方メートル[254]
  28. ^ 他に婚約した女性もあるなど、女性関係が派手だったこと[272]
  29. ^ 知人女性は事件から4か月後[271](同年8月)に死亡した[271]
  30. ^ a b c 法務省はこの死刑執行(1998年11月19日)にあたり、初めて死刑執行の事実と人数を公表した[455]
  31. ^ 1959年1月27日に千葉県で女性を殺害した前科があった。1960年7月、強姦致傷・殺人などの罪で無期懲役が確定したが、1976年2月に仮釈放されていた[340]
  32. ^ 1件目の被害者は56歳、2件目は79歳[342]
  33. ^ a b 『読売新聞』によればHNは10月11日付、HYは13日付で、それぞれ控訴取り下げを行った[353]
  34. ^ 姉は当時12歳、弟は当時11歳[360]
  35. ^ 夫婦ともに宿舎の保険金を狙った事実は認めたが、夫HYは「全員が逃げ出すと思った」として被害者全員への殺意を否認し、妻HNも「泥酔した従業員1人は焼死すると思った」と一部を曖昧に認めた以外は否認した[361]
  36. ^ ただしHY・HN夫婦の公判で、鈴木裁判長は夫婦だけでなく配下組員についても「犠牲者に対する未必的殺意が認められる」と認定している[357]
  37. ^ Iにとっておじである被害者は自身の母親(5姉妹の次女)の姉(長女)の元夫であり、被害者であるIのおじにとってIは自身の先妻の妹の次男に当たる[374]。おじは石油王・新津恒吉の甥(恒吉は3人兄弟姉妹の長男で、長女である妹と次男である弟がいた)で、恒吉の妹(長女)の次男である[374]。また同じく殺害されたおじの義母(おじの妻の母親)は岩崎家80代で、京城軌道社社長の次男との間に2女1男(長女・次女・長男)をもうけており、次女が同様に殺害されたおじの後妻だった[374]。Iは一時期、おじが所長を務めていた昭和石油川崎製油所で約10年間勤務していた[374]
  38. ^ 1979年に発覚した愛知宝運輸・長崎グループによる保険金連続殺人事件の先例になったとされる[380]
  39. ^ 名古屋地裁管内の第一審で言い渡された死刑判決は1965年(昭和40年)以降、同判決が8件目だった[380][380]
  40. ^ 殺人1件と殺人未遂事件に゙関与した男が無期懲役、殺人1件に関与した男3人は無期懲役・懲役10年・懲役13年、殺人未遂1件に関与した男3人は懲役8年・懲役7年・懲役4年が確定、殺人予備1件のみに関与したとされた人物1人は不起訴処分となっている[380]
  41. ^ 弁護団結成のきっかけは北海道庁爆破事件で死刑判決を受けた大森勝久(1994年に死刑確定)から「冤罪の可能性がある人がいる」と情報を寄せられたことである[423]
  42. ^ 最高裁における係属期間は11年5か月で[423]、死刑事件としては当時、戦後最長だった[424]。上告審が長期化した理由は、担当裁判官が定年退官で相次いで交代するなどしたためで、通常は1度限りの口頭弁論が2回[421](1985年7月4日・1990年6月21日)[422]開かれた[421]
  43. ^ 当初の目撃証言によれば、男性は出刃包丁を持った男2人と口論となり、喧嘩を止めようとした妻ともども刺殺された[428]
  44. ^ 1964年7月、窃盗未遂事件の被告人に対し第一審への差し戻し判決を言い渡した際、主文で「上告審の訴訟費用を被告人に負担される」と誤記した例[439]
  45. ^ 1945年(昭和20年)4月10日生まれ[445]
  46. ^ 上告取下書は同月7日付で最高裁に送付され[484]、同日付で第二小法廷(大西勝也裁判長)によって受理された[485]
  47. ^ 死刑冤罪4事件(免田財田川松山島田の各事件)の存在や死刑廃止国の増加など[496]
  48. ^ 法務省によれば当時、自殺した死刑囚は1936年以降で4人目だった[504]
  49. ^ 1981年1月に窃盗罪で大阪簡裁から懲役10月・執行猶予3年の判決を受けていた[510]
  50. ^ 1984年9月30日に都島警察署大阪府警)から大阪拘置所に入所[564]
  51. ^ 結婚後に「廣田」姓に改姓した[567]
  52. ^ 現:北警察署 十二坊交番(所在地:京都市北区紫野十二坊町33-4)[569]
  53. ^ a b 田中健治(裁判長)・三宅知三郎・松本論の裁判官3人は、2014年4月1日時点・2015年2月16日時点で、いずれも大阪地方裁判所第7民事部(合議1~4係)を担当していた[578][579]
  54. ^ 森義之は2014年6月4日に大阪高裁の部総括判事として赴任し、2017年(平成29年)まで務めた[583]。裁判所ウェブサイト (2015) によれば、森は2015年11月1日時点で大阪高裁の第14民事部を担当していた[584]
  55. ^ 裁判所ウェブサイト (2014) によれば、龍見昇・金地香枝は2014年5月22日時点で、ともに大阪高裁の第14民事部を担当していた[585]
  56. ^ 大阪高裁 (2014) は、「刑事施設の長の裁量により、信書の発信を認められるためには、社会通念上必要というべき事情がなければならないが、原告(神宮)の主張する理由(再審請求のために必要な費用を工面するために原稿を出版して印税を得ようとした)はそれに該当しない。また、出版社(徳間書店)との間で折衝が行われた形跡はなく、原稿の内容も元内閣総理大臣を誹謗中傷する趣旨のものが中心で、犯罪被害者を批判する記載、他民族を侮辱・蔑視する記載、わいせつな表現などが多数含まれるものであり、徳間書店によって出版される可能性が高かったとはいえない」と判断した[581]
  57. ^ 上告棄却時点(当時、Mは「F」姓に改姓済み)での本籍地は埼玉県鴻巣市逆川一丁目75番地1[601]
  58. ^ Mの実家(富山市上千俵)は借地に建っていたが、事件翌年(1981年)に解体され[602]、母親(Mの逮捕当時69歳)[603]石川県老人ホームに入居[602]。また、長男(同当時10歳)[603]も父親(事件前に離婚したMの前夫)に引き取られた[602]
  59. ^ 長野事件の被害者宅への身代金要求は3月6日夜 - 7日にかけ行われた[600]
  60. ^ 判決訂正申立棄却決定がMの下に送達された時点をもって、Mの死刑が確定した[614]
  61. ^ 『年報・死刑廃止』シリーズによれば、1999年9月28日時点[615] - 2006年9月15日時点[616]までは「F」姓を名乗っていた[617][618]
  62. ^ 同日以降、村松は自身の弁護人(後に解任 / 弟の弁護人になった)だった安田好弘を敵とみなしている[625]
  63. ^ 『朝日新聞』 (2019) では「熊谷市など」と報道されている[633]
  64. ^ ギャンブル仲間だった不動産業者。
  65. ^ 松井はその投書で、「事件を起こした時、結婚詐欺の被害にあってその加害者一家を殺した」と述べた上で、「自分を含め、殺人を犯すような人間は犯行時に『もし捕まったら』とは考えていない。刑の軽重は犯罪の発生には関係なく、厳罰化は犯罪の防止にならない」「死刑制度は『悪いことをした人は殺しても良い』というもので、一番人命を軽視させている」と主張している[637]
  66. ^ 『年報・死刑廃止』によれば、2004年7月末時点[644]では「松井」姓だったが[645]。2005年7月31日時点[646]・2006年9月15日時点[616]および2007年8月31日時点[621]では「N」姓を名乗っていた[647][648][649]。その後、2008年9月30日時点[650]では元の「松井」姓に戻っている[651]


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