竹村俊則
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竹村 俊則(たけむら としのり、1915年2月7日 - 1999年6月7日[1])は、日本の著述家、および京都の郷土史研究家。
- ^ a b c d 日外アソシエーツ(編)、2002、『京都府人物・人材情報リスト』2002、し - わ、日外アソシエーツ pp. pp.1072-1073
- ^ a b “新撰京都名所図会 竹村俊則氏が死去”. 京都新聞: pp. 夕刊 11. (1999年6月8日)
- ^ a b c “ひと 『昭和京都名所図会』を9年がかりで完結させた竹村俊則さん”. 朝日新聞: pp. 朝刊 3. (1989年8月16日)
- ^ a b c d e f g 竹村俊則、1964、『新撰京都名所図会』6、白川書院 pp. pp.242-247
- ^ a b “ひととき in 書斎 郷土史家 竹村俊則さん”. 京都新聞: pp. 朝刊 13. (1996年12月1日)
- ^ または『昭和京都名所図会』 巻一 略歴より。
- ^ a b 板井 2008, p. 61.
- ^ 板井 2008, p. 114.
- ^ 板井 2008, p. 115.
- ^ a b “昭和の“都名所図会”町の郷土史家が苦心の完成”. 京都新聞: pp. 朝刊 15. (1965年2月6日)
- ^ 板井 2008, pp. 63, 110.
- ^ 板井 2008, pp. 72–83.
- ^ 板井 2008, p. 85.
- ^ 板井 2008, p. 86.
- ^ 板井 2008, p. 108.
- ^ 板井 2008, p. 116.
- ^ 板井 2008, p. 105.
新撰京都名所圖會
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少年時代より秋里籬島の『都名所図会』(竹原春朝斎画、1780年)に感化され、現代の京都図会を著すことで、今昔対照ができわかり易く、また郷土・京都に対する恩返しにもなるだろうと目論み『新撰京都名所圖會』の執筆・発表を志す。学校卒業後は京都府庁に勤務していたがそれを退職し、事業を興す。自費出版の資金を調達することを志したものだったが、これは負債を抱え失敗となる。 その後1957年5月より、詩人であり白川書院の設立者でもある臼井喜之介の編集発行する月刊誌『東京と京都』で「東山の部」の連載を開始した。当初は下書きのつもりでありかなり省略しつつの執筆であったが、連載は好評であり、連載4回目からは単行本の刊行を見据え、単行本化を前提とした版が掲載されていた。第1巻の刊行は1958年10月1日。執筆期間は竹村自身が1964年頃に病床に伏したこともあり、1957年4月から1964年10月まで7年6か月に及んだ。第6巻・第7巻が1965年1月に刊行され、遂に『新撰京都名所圖會』は完成を見た。1965年4月24日には京の名士や友人60名を集め出版祝賀会が催された。なお連載そのものは『東京と京都』1965年8月号の第97回まで継続している。 項目数は約1700、挿絵は約400枚。あまり観光案内に傾注せず、さりとて堅苦しくなりすぎない様に留意のもとで執筆された。鳥瞰図も竹村自身によるものであり、主として現地でのスケッチを元とし、他の資料や写真を参考にしながら筆を用いて描かれたもの。
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