新城設楽家
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設楽貞通の二男である貞信(さだのぶ)を祖とする。 貞信は、徳川家康の家臣として、天正12年(1584年)小牧・長久手の戦い、天正18年(1590年)小田原征伐の陣に供奉し、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、酒井家次の隊に列し、元和元年(1615年)の大坂夏の陣では、伏見城の城番を勤めた。父貞通の旧領である三河国設楽郡に700石の采地を賜う。諸道具奉行。 貞信の嫡男である貞政(さだまさ)は、寛永15年(1838年)書院番士、同18年(1841年)に小姓組。寛文12年(1672年)に布衣を着することを許される。延宝2年(1674年)、陸奥仙台藩の伊達綱村の国政を監す。延宝7年(1679年)大阪町奉行となり、丹波国氷上、下野国芳賀に1500石を加賜され、肥前守に叙任せられる。妻は安倍瑞屯の娘。 貞政の嫡男の貞興(さだおき)は、小姓組番士。丹波国の采地を下野国河内郡に移され千四百石を知行する。 7代の貞喬(さだたか)は、青木一貫(伊達政宗子孫)の二男。寛政元年(1789年)、采地の竹広に陣屋を構える。 貞喬の嫡男である貞丈(さだとも)は、「蒲桃図説」を著す。妻は林述斎の娘。 貞丈の三男は、岩瀬忠震。 貞丈の四男である貞晋(さだてる)は、明治維新の版籍奉還により、静岡県引佐郡気賀町に移住した。 一族は、旗本として、御小姓組番士(貞高、貞猶)、御書院番士(貞根)を勤める。
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