敦賀郡司に就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 17:15 UTC 版)
文亀3年(1503年)、敦賀城主であった朝倉景豊の謀反により、宗滴は頭角を現した。室が景豊の妹であった宗滴は当初、景豊一派に加担するよう求められていたが、それを断るため幼少期を過ごした竜興寺に出家し、謀反の企てを朝倉家当主・朝倉貞景に密告し、景豊は謀反の咎により自害を命じられた。この功により、宗滴は金ヶ崎城主として敦賀郡司に就き、以後朝倉家の軍務を取り仕切ることとなった。 ただし、前述のように嫡子であった教景は成人すると朝倉宗家の家督継承に野心を抱き、景豊や朝倉元景らと共に当時の当主である貞景(氏景の子)に対して下克上を起こそうと画策した。しかし、文亀3年は氏景・貞景時代を通じて20年間を過ぎており、朝倉当主の支配体制は磐石で家督を奪うのは容易ではなかった。このため、土壇場になって教景は宗家の家督継承を諦めて下克上計画を貞景に密告。景豊が処分されて教景は敦賀郡司に任命され、以後は一族の重鎮として兄・氏景系統の当主を支えていくことになる。
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