敗北と幼君の補佐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 06:21 UTC 版)
「ウィリアム・オーガスタス (カンバーランド公)」の記事における「敗北と幼君の補佐」の解説
詳細は「ラウフフェルトの戦い」を参照 1746年のフランドル方面作戦にはカンバーランドは参戦しなかった。この時フランスはブリュッセル包囲へ大きく前進し、ロクールの戦いで連合軍を破った。翌1747年、カンバーランドは大陸へ戻って、連勝を続けているサックスにもう一度戦いを挑み、1747年7月2日、ラウフフェルトの戦い(ヴァルの戦い)で大敗を喫した。ここはマーストリヒトの近くであった 。この戦いとベルヘン・オプ・ゾーム攻囲戦で、両軍は交渉の席に着き、1748年にアーヘンの和約が結ばれて、カンバーランドは帰国した。 カロデンの戦い以降、カンバーランドの人気は下り坂となって行った。これが政治で名を成すことへの妨げになった。フレデリック・ルイスの死によって、その王子であるジョージが次の国王に決まり、カンバーランドは、摂政の地位が可能であったにもかかわらず、その地位に自分がふさわしいと主張することができなかった。妥協策として、摂政の地位は、王太子未亡人のオーガスタに付与された。オーガスタはカンバーランドを敵とみなしていたが、彼女の権力は大きいものではなく、12人から成る委員会の助言を受けることになった。その委員会の筆頭委員はカンバーランドだった。
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