放牛孝子説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 20:21 UTC 版)
熊本市がたてた説明文によると、五代細川綱利公の頃、城下に貧しい鍛冶職の親子が住んでいた。父七左衛門は生来の大酒飲みの上怠け者であったが、子供は評判の孝行息子であった。或る日(貞享三年一月四日)酒のことで腹を立て、息子に向って投げつけた火吹竹が表を通りかかった武士 大矢野源左衛門に当ってしまった。そのまま父親は恐れ逃げ出した為、激怒した大矢野は父親を追い掛け討ち果たした。息子は悲嘆やるかたなく仏門に入り名を放牛と改めて「十年間に百体の石仏を建立して父の菩提を弔わん」と発願し、百七体の石仏を建立して、その大願を達成した。大願成就の100体目は熊本市池田にある往生院 (熊本市)という寺にあり、特に大きい。貞享三年正月四日の御奉行所日記は兄弟喧嘩の末とある。 「切捨御免」も参照 放牛研究者の永田日出男は、刻まれた文字などから、孝子説を否定、当時の社会事情、飢饉などが関係していると説く。
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