攻勢から頓挫まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 02:00 UTC 版)
「トランシルヴァニアの戦い」の記事における「攻勢から頓挫まで」の解説
8月15日夜、国境地帯に進撃を開始した3個軍からなるルーマニア軍はカルパティア山脈の弱体な防備を潜り抜けた。殆ど戦力に余裕の無いオーストリア軍師団の散発的な抵抗が続く中、ルーマニア軍は事前に策定したトランシルヴァニア攻撃作戦「ハイポセシス・ゼータ」に基づいて、戦略的に重要なムレシュ川を目指した。計画では迅速な進撃が求められていたが、ルーマニア軍部隊は低速で進んだ為に8月16日にブラショフを通過して、9月4日にオルト川を横断、9月中旬に漸くシビウ周辺に辿り着いた。 同じ頃、ルーマニア軍の要請を受けてロシア軍が3個師団を北ルーマニアに送ったが、物資不足などからトランシルヴァニアの戦いには参加しなかった。中央同盟国もブルガリア軍がオーストリア軍の為に援軍を派遣していたが、ドイツのアウグスト・フォン・マッケンゼン将軍は彼らを率いて南ルーマニアの守備隊を撃破して国境要塞を占領した。トランシルヴァニアにもドイツ軍の師団が到着、ルーマニア軍は独墺軍の反撃で撃退され、それ以上先に進めなくなった。ルーマニア軍はトランシルヴァニアの占領地区で防御を固め、攻勢用の一部部隊を南部のブルガリア軍に派遣している。 以降、ルーマニア軍のトランシルヴァニア作戦は攻勢から防戦へと早変わりして、連合国にとって厄介なお荷物となった。
※この「攻勢から頓挫まで」の解説は、「トランシルヴァニアの戦い」の解説の一部です。
「攻勢から頓挫まで」を含む「トランシルヴァニアの戦い」の記事については、「トランシルヴァニアの戦い」の概要を参照ください。
- 攻勢から頓挫までのページへのリンク