戦局の転換
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/14 16:06 UTC 版)
「カステランマレーゼ戦争」の記事における「戦局の転換」の解説
1930年10月、マッセリアはウィリアムズバーグのカステラマレ派有力者フランチェスコ・イタリアーノの命を狙うが、狙撃は失敗し怪我を負わせるにとどまった。10月23日、マッセリアはアイエロをシカゴで暗殺した。この暗殺はマランツァーノ派とカポネとのシカゴにおける激しい権力争いの一部だったとみられたが、ルチアーノによれば、マッセリアがアル・ミネオに指令して殺害が実行された。 11月5日、マッセリア軍団の中核だったアル・ミネオとスティーブ・フェリーニョが作戦会議に集まったところを急襲され、暗殺された(会議場所をリークした裏切り者がいたと信じられている)。会議場所近くに張り込んでいたマランツァーノ=ガリアーノ合同暗殺部隊はマッセリアを狙っていたが、彼は現れなかった。マッセリアはこのときガリアーノの裏切りを知った。この頃からマッセリア側に付いていたギャング達はマランツァーノに鞍替えし始めた。 1930年12月、抗争が長引くのを嫌ったニューヨーク内外の中立マフィアがボストンに集まり、ボストンマフィアのガスパール・メッシーナを議長として事態の打開を話し合った(通称ボストン・サミット)。結果、抗争終結を目指すコミッションが立ち上がり、ジョゼフ・トライナが議長になって停戦交渉を進めることになった。コミッションは優勢に転じていたマランツァーノを説得したが、マランツァーノはマッセリアの首を取るまで戦争は終わらないとして停戦も和解も拒否した。この間マッセリアは、警察の圧力から銃の使用を部下に禁じた。その後コミッションはマランツァーノと交渉を重ねた末、一時停戦にこぎつけた(一説に、シカゴのアル・カポネが平和特使をニューヨークに派遣した)。
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