征西府の確立とは? わかりやすく解説

征西府の確立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 05:45 UTC 版)

菊池武光」の記事における「征西府の確立」の解説

筑後川での戦勝後、武光は北軍掃討推し進め正平16年/康安元年1361年7月には自ら出陣して、ついに古より九州の「首府であった大宰府制圧成功する8月には頑強な抵抗続けていた少弐氏も本拠地の有智山城放棄して豊後大友氏元へ落ち延びると、懐良親王大宰府入城し、ここに征西府移して懐良親王-菊池武光」による九州支配体勢確立した少弐惨敗報告に、終始北軍勢力圧倒していた京都政界では激震走り将軍足利義詮大友氏時に対して少弐頼尚協力して征西府攻撃する事を命じ同時に当時幕府の最高実力者であった斯波高経の子息・氏経を新探題として九州へと派遣した。また後光厳天皇は武光の武威恐れて、「鎮西並びに菊池武光以下、凶徒追討の事」と、その追討命じ綸旨出した正平17年/貞治元年1362年8月、武光は未だ征西府服さぬ大友氏時を討つべく、弟・菊池武義征西府の守将に就かせ、自らは豊前豊後方面出陣した。この隙を突いて探題斯波氏経子息松王丸大将として、少弐冬資らに大宰府襲撃させた。不意を突かれ征西府軍ではあったが、守将の武義負傷しながらもこれをよく防いだこの間に武光も豊前より馳せ戻って救援し一族の城武顕とともに探題軍を打ち破った長者原戦い)。斯波氏経はこの敗報接すると戦意喪失し翌年春に京都逃げるように帰還したその後懐良親王と武光率い征西府武威益々高まり正平20年/貞治4年1365年)、斯波氏経に代わって探題就任した渋川義行一歩九州の地に踏み入れさせず、空しく京都帰還させるなど、正平16年/康安元年大宰府入城より11年間は征西府絶頂期であった

※この「征西府の確立」の解説は、「菊池武光」の解説の一部です。
「征西府の確立」を含む「菊池武光」の記事については、「菊池武光」の概要を参照ください。

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