征西府の確立
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筑後川での戦勝後、武光は北軍の掃討を推し進め、正平16年/康安元年(1361年)7月には自ら出陣して、ついに古より九州の「首府」であった大宰府の制圧に成功する。8月には頑強な抵抗を続けていた少弐氏も本拠地の有智山城を放棄して豊後の大友氏の元へ落ち延びると、懐良親王は大宰府に入城し、ここに征西府を移して「懐良親王-菊池武光」による九州支配の体勢を確立した。 少弐軍惨敗の報告に、終始北軍勢力が圧倒していた京都の政界では激震が走り、将軍・足利義詮は大友氏時に対して少弐頼尚と協力して征西府を攻撃する事を命じ、同時に当時幕府の最高実力者であった斯波高経の子息・氏経を新探題として九州へと派遣した。また後光厳天皇は武光の武威を恐れて、「鎮西宮並びに菊池武光以下、凶徒追討の事」と、その追討を命じる綸旨を出した。 正平17年/貞治元年(1362年)8月、武光は未だ征西府に服さぬ大友氏時を討つべく、弟・菊池武義を征西府の守将に就かせ、自らは豊前・豊後方面へ出陣した。この隙を突いて探題・斯波氏経は子息・松王丸を大将として、少弐冬資らに大宰府を襲撃させた。不意を突かれた征西府軍ではあったが、守将の武義は負傷しながらもこれをよく防いだ。この間に武光も豊前より馳せ戻って救援し、一族の城武顕とともに探題軍を打ち破った(長者原の戦い)。斯波氏経はこの敗報に接すると戦意を喪失し、翌年春には京都へ逃げるように帰還した。 その後も懐良親王と武光率いる征西府の武威は益々高まり、正平20年/貞治4年(1365年)、斯波氏経に代わって探題に就任した渋川義行を一歩も九州の地に踏み入れさせず、空しく京都へ帰還させるなど、正平16年/康安元年の大宰府入城より11年間は征西府の絶頂期であった。
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