府院の争い、対南強硬とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 府院の争い、対南強硬の意味・解説 

府院の争い、対南強硬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 07:48 UTC 版)

徐樹錚」の記事における「府院の争い、対南強硬」の解説

1916年民国5年6月6日袁世凱死去すると、黎元洪総統段祺瑞国務総理それぞれ就任する徐樹錚は、国務院秘書長となった府院の争いでは、徐は段の後ろ盾得て黎と抗争した。国務会議では徐は越権言動弄し、黎の支持を受ける内務総長孫洪伊激し争いになっている結局徐世昌調停により、11月徐樹錚と孫は同時に罷免された。 1917年民国6年5月黎元洪段祺瑞国務総理から罷免する徐樹錚張勲煽動し復辟を行わせて7月に黎を失脚させた。徐はその後直ちに、討逆軍総部参賛として、段による張勲討伐追随したその後直隷派馮国璋総統となると段祺瑞国務総理復帰し徐樹錚陸軍部次長任命された。孫文らが率い南方政府護法軍政府)への対処では、徐は「武力統一」による強硬手段唱え湖南省に軍を派遣した。しかし、馮は「和平統一」を主張して穏健な解決唱え、これに反対した。結局、段と徐は同年11月辞職追い込まれている。 徐樹錚1918年民国7年)に奉天派奉軍)の張作霖説得して安徽派支持させた。また、自身奉軍副司令として奉軍入関させた。この圧力に、馮は南方政府との対決迫られ同年3月には段を国務総理復帰させられた。さらに徐は、王揖唐らと「安福倶楽部」という政治集団結成し国会において安徽派支持する勢力とさせた。また、直隷派で「和平統一」を画策していた陸建章暗殺し直隷派曹錕篭絡して南方進攻させている。

※この「府院の争い、対南強硬」の解説は、「徐樹錚」の解説の一部です。
「府院の争い、対南強硬」を含む「徐樹錚」の記事については、「徐樹錚」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「府院の争い、対南強硬」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「府院の争い、対南強硬」の関連用語

1
14% |||||

府院の争い、対南強硬のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



府院の争い、対南強硬のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの徐樹錚 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS