幼少期から自立まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 00:56 UTC 版)
「キラ・ムラートワ」の記事における「幼少期から自立まで」の解説
キラ・コロトコワはルーマニアのソロカ(現在のモルドバ)出身で1934年生まれ、父はロシア人、母はルーマニア人、活発な共産主義者の両親はともに共産党員だった。父のユーリ・コロトコフは第二次世界大戦中に反ファシストのゲリラ活動(en)に身を投じルーマニア軍に逮捕され、尋問を受け銃殺刑に処された。戦後、キラを連れた婦人科医の母はブカレストに移り住むと、ルーマニア社会主義共和国政府の要職につく。 モスクワのゲラシモフ映画研究所(現・全ロシア映画大学)で監督を専門に学んだコロコトワは1959年に卒業後、郷里のベッサラビアに近い黒海沿岸港湾都市オデッサに移り、オデッサ映画スタジオ(en)で監督として働き始める。デビュー作を1961年に発表、主張の対立により1978年にはレニングラードに移る。レンフィルムのスタジオで映画を1本撮っただけでオデッサに戻った。 ムラートワの映画言語は社会主義リアリズムの規範に従わず、その特異性が絶えずソビエト当局の批判を買った。映画学者のイサ・ウィリンガー(英: Isa Willinger)はその形式をソビエト映画のアバンギャルド、特にエイゼンシュタインの〔魅力のモンタージュ〕と比較対照している。ムラートワはたびたび監督の仕事を禁じられ、数年単位で映画の現場から締め出されている。 1960年代初頭に、オデッサの同僚でスタジオ付き監督のオレクサンドル・ムラトフと結婚し、数本を共作した。夫妻は娘のマリアンナが生まれてまもなく離婚、一方のムラトフはキエフに移り、ドヴジェンコ・フィルム・スタジオで働き始める。ムラートワはレニングラードの画家兼映画セットデザイナーのエフゲニー・ゴルベンコと再婚後も姓をあらためていない。
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