平和の合意と亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/04 08:56 UTC 版)
「ヒュー・オニール (第2代ティロン伯)」の記事における「平和の合意と亡命」の解説
ヒューはマウントジョイとともにダブリンに行き、そこでジェームズ1世が新しく王になったことを知った。6月、ヒューは王宮に行くが、その時、レッド・ヒュー・オドンネルの跡を継いでオドンネル一族の族長になったローリー・オドンネル(en)を同伴した。イングランドの廷臣たちは、新王がヒューたち反乱者を丁重に扱うのに激怒した。 ヒューの爵位と地所は守られることになったが、ヒューをアイルランドに帰国させるかどうかで政府内で論争が始まった。結局、ヒューの権利と力をコモン・ローによって制限する方針で帰国は認められた。しかし、ヒューの封建家臣に関する権利(ドナル・オカハンが最も重要であった)についての議論はもつれにもつれ、1607年、ヒューはこの問題を王に訴えようとロンドンに出向いた。しかし、警告を受け、逮捕されそうになった。 そして、アイルランド史でも有名なエピソードの1つ、「伯爵の逃走(Flight of the Earls)」が起こった。おそらく1603年にティルコネイル伯を創設されたローリー・オドンネルの説得もあったものと思われる。スペインとの関係はローリーをのっぴきならない立場に追い込んでいた。1607年9月14日深夜、ヒューとローリーはスウリー湖(en)のラスミュラン(en)からスペインに向かって出航した。妻、家族、親類を含めて総勢99人での亡命だった。逆風で東に運ばれ、セーヌ川に避難し、オランダで越冬した。そして1608年4月、一行はローマに到着し、ローマ教皇パウルス5世の手厚い歓迎を受けた。ローリーはその年のうちに亡くなった。スペイン王フェリペ3世の支援を期待したローリーの望みは、フェリペ3世がジェームズ1世との平和を維持したかったため、実現しなかった。当時スペインの財政は苦しく、艦隊はオランダとのジブラルタルの海戦で、ヒューたちがアイルランドを出る数ヶ月前に壊滅していた。このことはこの亡命が衝動的で計画を練った上ではなかったことを暗示している。 1613年、アイルランドの議会によってヒューは法喪失宣言を受け私権を剥奪された。1616年7月20日、ヒュー・オニールはローマで亡くなり、サン・ピエトロ・イン・モントリオ教会に埋葬された。9年間の亡命生活を通して、ヒューはアイルランドに戻るため積極的に動き回り、またイングランドをアイルランドから追い出す方法と、ロンドンからの赦しの提案についてあれこれ思いめぐらした。ヒューの死を受けて、アイルランドの宮廷詩人たちは「詩人たちの論争(Contention of the bards)」に没頭した。
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