幕末期の岡山藩士として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/02 03:00 UTC 版)
弘化2年(1845年)先徒雇として出仕。その後、安政3年(1858年)父が没したため家督相続する。この頃から牧野権六郎の目に留まるようになり、元治元年(1864年)権六郎の命で吉田屋十郎右衛門とともに長州藩に赴き山縣半蔵らと面会し、さらに益田親施(家老)と折衝することに成功している。 慶応元年(1865年)2月、牧野権六郎の推挙により郡奉行(備中国)になる。慶応2年(1866年)4月、倉敷浅尾騒動がおこったが景端は尊攘派であったので取締りには消極的であった。そのため藩が徳川慶喜に詰問されたことにより、同年5月に藩主・池田茂政より郡奉行罷免(中小姓への格下人事)・切米10俵削減を被った。同年5月より各方面の郡奉行は農兵組立御用をし始めており、同年10月農兵組立掛となっていた景端も農民を徴募し農兵隊(12月17日耕戦隊と改名)を組織した。 慶応3年(1867年)12月27日太政官より下命された西宮警備(兵庫県西宮市)のため日置帯刀に随い耕戦隊を率いて出陣。
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